株式会社PEET

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はじめに:

1979年のロサンゼルス空港で、私はMichael Tomsonに会いました。その時彼はビジネスパートナーのJoel Cooperと立ち上げた新会社をカリフォルニア州南部に展開する計画をしており、ちょうど南アフリカからの便でアメリカに降り立ったところでした。ここから、MichaelとJoelのアメリカでの冒険が始まったのです。まさに、大冒険の始まりでした。その後は現代のサーフィン業界が急成長する中、彼らは協力して会社を成長させていきました。

私が1974年に雑誌『サーフィン』で働き始めた頃、サーフィン業界は今とは比べものにならないほど小規模で、年間1億ドルあまりという本当に小さな市場でした。しかし、33年経った現在、年間の市場規模は70億ドルにまで成長しました。

反体制的なライフスタイルの小規模産業が、なぜこれほどまで大きく成長したのでしょうか?何がこの急成長のきっかけとなったのでしょう、そして誰が牽引役となったのでしょうか?ほとんどの人は、現 在のサーフィン界のリーダー的存在であるQuiksilverやBillabong、もしくはHang TenやOpなど現代のサーフィン界の礎を築いた老舗メーカーの名を挙げるでしょう。しかし、こうして振り返ってみると Gotchaがサーフィン界に与えた多大なインパクトや影響は計り知れないものがあります。

『成長:Gotchaと現代のサーフィンスタイルの進化』は、まさにGotchaの歴史について書かれています。設立の経緯、その後の成長と衰退、そして現在の再起を図る様子が詳細にわたって紹介されています。また、この本には現代のサーフィン業界の急成長や衰退など黎明期の出来事が年代順に書かれており、Gotchaを成功に導き、現在もトップサーフプランドで重要なポジションを占める人物にスポットを当てています。また、『成長』ではGotchaを成功に導いた原動力が語られていると同時に、 Gotchaを世界で有数の人気サーフブランドに押し上げた数多くの才能豊かな人達への感謝の意が 込められています。


Robert Mignogna




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「Gotchaは、まるで卓越したロックパンドのようです。コンディション、時、場所、メンバー、すべてが揃って初めて素晴らしい音楽を奏でることができます。Gotchaでいえば、素晴らしい製品です。」 Shaheen Sadeghi
The LAB and The CAMP創業者元Gotcha副社長

第1章すべてはここから始まった



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2008年、サーフィン文化はグローバルなものとなりました。ハワイ、カリフォルニア、オーストラリアや 南アフリカに代表されるサーフィンの中心地は現在、日本、フランス、ブラジル、インドネシアやタヒチ など、サーフィンに適した波がある国々とリンクしています。サーファーは多様な言語を話し、年齢層も若い人から白髪のロングポーダ一まで幅広くなっています。また、場所によっては女性サーファーの 数が男性サーファーの数を上回っています。サーフィン、そしてサーフィンを取り入れたライフスタイルはシックなものです。オアフ島のノースショアで、国際的にも有名なサーファーに混じってサーフィンを楽しむロックスターや俳優の数の多さを見れば、サーフィンの人気の高さが分かるでしょう。また、ウォール街やハリウッドで活躍する大物ブローカーも仕事を抜け出し、サーフィンで午後の一時を楽しん でいます。今やサーフィンは車から映画まで様々な広告媒体に利用されていますが、サーフィン界は原点を忘れず、力強く、そして確実に成長を続けています。サーフィン市場は現在、数10億円産業になりましたが、ここまで成長するには時間がかかりました。サーフィン産業の原点はサーフィンが流行した50~60年代に遡り、人気サーファーのMalibuが登場し、GidgetやThe Beach Boys、The Endless Summerが流行の最先端でした。しかし、今日のサーフィンの爆発的流行の原点は80年代 にあります。この時にサーフィンが初めて若者文化に受け入れられ、今日のボードスポーツ産業の基礎を築きました。ちょうどこの時期にある会社が設立されました。それがGotchaです。Gotchaは創造力に富んだ会社で、過激なアイデアを生み出し、そして前例を無視して挑戦していくことによりサーフ ィン業界の基礎を築き上げました。その精神は`今日のサーフィンやスケート、スノーボードなど、アクションスポーツのブランドに受け継がれています。Gotchaは反権威主義を掲げた最初のサーフブランドで、反社会的なロック精神をデザインした洋服などが若者文化に受け入れられました。会社の基本的な理念は、「コアマーケットが気に入ってくれれば、他はどうでもいい。」でした。Gotchaはコアな顧 客からの圧倒的な支持を得て、サーフィン文化以外の要素も取り入れつつ、その市場を広げていきました。まさに、長い間カリフォルニア州南部と太平洋諸島でのみ繁栄してきたサーフィン業界を一変させました。Gotchaは当時、ボードやワックス、トランクス、Tシャツしか並んでいなかったサーフショップにスポーツウェアを取り入れました。また、サーフウェアにデニムを取り入れ、丈の長いボードショーツを製造した最初のブランドでした。現在は当たり前となっていますが、5つの世界タイトルを持つサ ーファーが在籍する人気サーフチームのスポンサーになった初めてのブランドでもありました。少々過激な宣伝でも明らかなように、Gotchaは確固たる姿勢で自社ブランドを売り込みました。サーフィン雑誌に掲載された広告もそれまで目にしたことがないほどに洗練された、そしてきわどいものでした。 Gotchaは超一流のアートディレクターと写真家を雇い、広告キャンペーンを展開しました。そして、DJや人気俳優、ゴーゴーガールズを起用してのファッションショーの代わりに、過激なパーティーを開催しました。Gotchaブランドの封筒や受賞対象にもなったカタログを製作し、火山の噴火口や光り輝く都会の街並みなどの写真も素材に使いました。また、宣伝活動に性を利用した最初のサーフウェアブランドでした。Gotchaは、サーフィンコンテストのスポンサーも務め、世界チャンピオンのMartin Potterなど一流チームに所属するサーファーを起用したプロモーションビデオも作成しました。さらに、 Teahupo'oで開催されたサーフィンイベント「Gotcha Tahiti Pro」のスポンサーを務めた時には、世界で最も危険な波の存在を世に知らしめました。果たして、これらの宣伝活動の効果はどうだったでしょうか?効果は当初の予想を上回りました。Gotchaは80年代中頃に急成長を遂げ、サーフショップやデパート内の店舗を席巻し、創業10年と経たぬうちに売上げ1億ドルを突破するという金字塔を打 ち立てました。まさに、Gotchaは現在のアクションスポーツ産業の草分け的存在でした。Gotchaは予想以上の成功を収め、かつてはOcean Pacificしか達成したことのない売上げを記録しました。しかし、 Gotchaが急成長と遂げている時には、すでにOpはサーフブランドとして見なされていませんでした。 Gotchaの共同創始者であるMichael TomsonとJoel Cooperは未知の領域にも足を踏み入れて行き ましたが、参考とするガイドブックもなかったため、様々な代償も払ってきました。「私達はF-16戦闘機のように母船から飛び立って行きました。しかし、燃料や馬力の大きさに耐えきれず、ある高度に達した時に機体が揺れ始め、ひび割れが発生しました。」と、Tomsonは当時をこう振り返ります。

「サーフィンをしないのなら、じっとしていろ。」


「ブランドというのは、感情をアピールする手段です。自分がこうありたいと思う個性は、顧客の心に響きます。それが、まさにGotchaが行ってきたことです。」
Michael Tomson




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ショートボードが革命期に入っていた頃、Michael Tomsonは南アフリカの伝説的サーファーである Shaun TomsonやMike Larmont、Bruce Jackson、Paul Naudeらと共にDurban's Bay of Plentyでサ ーフィンの腕を磨きました。Bayでの競争で揉まれたことにより「やってみよう」精神が身に付き、その 後に会社を立ち上げた際にもその姿勢が存分に発揮されました。Cousins ShaunとMichael Tomson はオアフ島のノースショアで一躍有名となり、次第に国際的にも名の知れたサーファーとなっていきました。「MichaelとShaunは、Pipeでバックサイドアタックという技を生み出しました。」と、サーフィン雑 誌『Zigzag』をLarmontと共に発行したPaul Naudeは話します。ノースショアでのCousinの傑出した パフォーマンスは、Bill Delaneyが1976年に発表したサーフィン映画『Free Ride』にも登場します。こ の映画ではTomsonなど若手実力派サーファーも紹介しており、サーファー界の新時代の幕開けを 告げ、サーフィンヘの新しいアプローチを示しています。オーストラリア同様、南アフリカでも公式大会が行われました。カリフォルニアのサーファーと違い、南アフリカではサーフィンは非常に競争的なス ポーツだと考えられており、その土壌がサーフィンのプロ化へと繋がっていきました。ごくわずかのサ ーファーだけがプロサーファー界のトップに上り詰めることができ、サーフィン雑誌にも彼らの写真が 数多く掲載されました。しかし、彼ら独特のスタイルや存在が誇張されて報道されることもしばしばありました。大衆本でも「Aggro」という言葉が宣伝文句で使われるようになりましたが、カメラに媚を売ったり、ラインアップやランキングばかりを気にしている存在として扱われることも多々ありました。サーフィンのプロ化により、スポンサー、ランキング、大会で優勝した回数、雑誌に登場したページ数、表紙を飾った回数など、サーファーのステータスを計る新しい基準が生まれ、プロサーファーは、富と名声を 手に入れました。ロックスターの時代の到来と共に、サーフィンの時代が幕を開けました。Michael Tomsonは、このような状況下でもその能力を発揮し、新しく設立されたプロシステムの世界ランキン グでは最高5位に入りました。「1975~76年の冬に登場したサーファーの中で、Rabbit、PT、Shaun、 Michaelは、サーフィン界に新たなエネルギーをもたらしました。」と、映画監督のBill Delaneyは語っ ています。「彼らのパフォーマンスは速く、力強く、そして華麗さを備えていました。特にMichaelTomsonはその溢れる才能を知的に、そして文化的に幅広く利用し、最終的には自身の創造力を生 かす方向に進みました。」プロサーファーとして参戦している時も、Tomsonは作家として活躍していました。サーフィンと若者文化を取り上げた雑誌『Down the Line』の出版に携わったり、サーフィン文化の黎明期には南アフリカの新聞やカリフォルニアを拠点とする雑誌『サーフィン』にも寄稿していました。彼は、ジャーナリストの視点でサーフィン文化の現状や将来の展望を描いていました。Joel Cooperは 南アフリカのヨハネスバーグで育ちました。後にビジネスパートナーとなるMichael TomsonとはダーバンのNatal大学で経営学を学んでいる時に出会い、二人姉妹の女の子とダブルデートをした時に 仲良くなりました。
後にTomsonが言うには、姉妹は二人とも美人だったそうです。卒業後、Cooperは南アフリカで最も若い公認会計士の一人(アメリカでのCPA)となり、家業のVance Clothingを継ぎました。Tomsonがプロツアーに参戦したりジャーナリズムの道を目指していた時も、CooperはTomsonと連絡を取り合っていました。Tomsonのスポンサーの中には、新進のサーフウェア会社だった Quiksilverも含まれていました。オーストラリア発祥のQuiksilverは、カリフォルニア州南部やハワイを足がかりに、その他の地域へも目を向けた世界戦略を進めていました。




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Tomsonは、Quiksilverの共同オーナーであるBob McKnightとJeff Hakmanとも交流があり、ノースショアでは一時期同居していたこともありました。この縁がきっかけとなり、南アフリカでのQuiksilver社製品の販売権の話しがTomsonに舞い込んで来ました。1978年にこの話しがTomsonに持ちかけられると、彼は大学時代の友人であったJoel Cooperに一緒に会社を立ち上げる計画を相談しました。しかし、Michael Tomsonは南アフリカのスターであり、Quiksilverは当時無名のメーカーだったため、 Cooperにとってはこの計画は魅力的に感じませんでした。その代わりに、Cooperは会社設立の案を Tomsonに持ちかけました。そして彼らは新会社を設立し、Cooper一家が所有していた工場の一部を 借りて自社製品の生産を始めました。ここからGotchaとQuiksilverのライバル関係が始まり、80年代にはコアなサーフィン市場の獲得に向けてさらにヒートアップしました。「Quiksilverの販売権の話しを持ちかけてくれたBob McKnightには、サーファーとして恩義を感じていました。私の選択は正しか ったが、確信を持つまでには時間がかかりました。私は常にQuiksilverとは違う特徴を出そうと心に 言い聞かせていました。」と、Tomsonは後に話しています。新ブランドの名称は、アメリカツアー中の Tomsonがテレビコマーシャルで見た売り文句から来ています。「南アフリカにテレビはほとんどありませんでした。その時に見たのはGillette社のカミソリのコマーシャルで、俳優が「Gotcha!」と言いまし た。あのような言葉を考え出し、それをテレピコマーシャルで流すことに驚きを感じました。数年後、 Joelがブランドの名称をどうするか尋ねてきた時に`私は「Gotchaでどう?」と、提案しました。」この 時、サーフィン市場は世界的に見ればまだまだ未開発の市場でした。当時最大のサーフウェアブランドだったOcean Pacificも、まだ南アフリカには進出していませんでした。「南アフリカにはHang Tenと Lightning Boltしかなく`Quiksilverも進出していませんでした。私達はMichaelが所有していた工場ラインで自社製品の生産を始めました。とても小さなラインでしたが、明確なビジョンとコンセプトの下、宣伝活動も始めました。」と、Cooperは当時の様子を振り返ります。また、Paul NaudeはGotcha創 業当時のことをこう振り返ります。「彼らの市場戦略は他社とまるっきり違い、今までのものと比較すると段違いに前衛的でした。その戦略が受け入れられ、南アフリカではGotchaの人気が高まっていきました。製品の質も良く、デザインも先進的で広告も魅力的でしたので、子供達はGotchaの虜になりました。」
二人の創業者の役割は、それぞれ明確に決まっていました。「私の肩書きはCEOで、Michaelは代表取締役でした。Michaelの役割は販売、デザイン、マーケティングで、私は財務、売上げ管理、国際ビジネスなど、財政面を担当していました。社長が二人もいるという批判もありましたが、 Michaelと私はお互いに尊敬し合い、強い絆で結ばれていました。そして、何事もあうんの呼吸で進め ていきました。」と、Cooperは語っています。

「彼らの市場戦略は他社とまるっきり違い、今までのものと比較すると段違いに前衛的でした。」

Paul Naude
Billabong USA代表取締役
元Gotcha副社長




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Gotchaは、Tomsonをブランドの顔として前面に押し出しました。「最初にデザインしたロゴには、中央にMichaelが描かれていました。ブランドの名称も、アメリカに進出するまではGotcha by Michael Tomsonでした。」しかし、そこにはCooperの思惑がありました。「Michaelは有名人で悪い評判もな かったので、賛成しました。それがブランドの姿であり、まさにMichael Tomsonそのものでした。」と` Cooperは語っています。Tomsonがそのカリスマ性や創造力に富んだエネルギーで会社を急成長さ せている時、Cooperは会社を軌道から外れないように後ろから支える役割を担っていました。少々魅力に乏しいポジションと思われがちですが、会社にとってはなくてはならない重要なポジションでした。
「Joelがいなかったら、ここまでの成長はなかったでしょう。間違いありません。私は根気もなく、勤勉さもなく、黒子にも徹することも、指示に従うこともできません。これは、私の生き様ではありませんでした。彼がいなかったら、早々に引き上げて作家になっていたかもしれません。」と、Tomsonは言います。二人が会社に在籍している間は彼らの役割は変わりませんでしたが、二人とも強い個性を持っていたので、亀裂が入ることもありました。「まるで闘鶏のようでした。」と、Naudeは当時を振り返ります。しかし、彼らは重要なことを決める時には衝突しませんでした。「Michaelと私はとても志の高い人間で したが、完全に正反対の性格だったので皆は私達のビジネスはうまくいかないと思っていました。しか し、私達のビジネスの成功の秘訣は二人の関係の良さにありました。実際、私は彼の性格を把握して いましたし、お互いにお互いの欠点を補っていました。」と、Cooperは語っています。Gotchaは南アフ リカでも成功を収めましたが、世界市場は未知の領域でした。世界進出をするためにはサーフィン業界の中枢に移転する必要があり当時の中枢といえばカリフォルニア州南部でした。会社設立11年目を迎えた頃、アメリカ国内市場へ参加する機会がやってきました。
「Michaelと私はとても志の高い人間でしたが、完全に正反対の性格だったので皆は私達のビジネスはうまくいかないと思っていました。しかし、私達のビジネスの成功の秘訣は二人の関係の良さにありました。」

Joel Cooper
Gotcha共同創始者
Lost Clothing CEO




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「Hendrixの曲の中に、「サーフミュージックはもう聴かないでしょう?」という一節がありました。それと同じことです。サーフファッションにはもう出会うこともないでしょう。今までのようなものは。もう目にすることもないでしょう。」
Dave Gilovich
Gotchaマーケティング部副部長
Surfline副社長

第2章アメリカンドリーム




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Michael Tomsonはすでに雑誌『サーフィン』を通じて、オレンジ郡南部ではその存在が知られていました。また、オーストラリアでも有数の名家出身であり、当時『サーフィン』のオーナーでもあったClyde Packerにも認められていました。Packerはアメリカに移住する前はオーストラリアでテレビ局を保有しており、その後にニューヨークを拠点とする出版社から『サーフィン』を買収しました。「Clydeはオーストラリア出身で、尊大ながらも古き良き人物でした。彼は自分と同レベルの人間はいないと思っていました。しかし、私達は南アフリカ出身で同じような学歴を持っていたので、彼とはウマが合いました。最初から彼はMichaelに一目置いていて、よく面倒を見てくれました。」と、Joel Cooperは振り返ります。 TomsonとCooperがアメリカでの足場を固め始めた頃もMichaelはプロツアーで海外を転戦していま したが、他の仕事仲間がカリフォルニア州南部のオレンジ郡にある海岸沿いの町を新しい事務所の候補地として選びました。TomsonはSan Clementeに住む『サーフィン』の関係者を通じてその地域には精通しており、Cooperも以前アメリカに来た際にそこに何日間か滞在したことがありました。「当初はSan ClementeとNewportの中間ぐらいの場所を希望していました。」と、Cooperは語っています。



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しかし、Newport Beachは当時Quiksilverの勢力範囲だったので、まずは自分達の足場を固めること にしました。「こうして、私達はLagunaを拠点としました。」と、Cooperは振り返ります。Habie Alterは, Laguna Beachでサーフボード会社を設立しましたが、当時はサーフショップが一軒しかなく、サーフィ ン関連の会社もありませんでした。Lagunaは、元来芸術家達が多く住んでいた町で、観光客も多く、 かつては反体制文化の中心でした。Cooperは880 Park AvenueでCooperとTomsonが二人で住む ことができるほど広い一軒家を見つけ、そこを拠点としてGotchaはアメリカでの活動を本格的に開始しました。「Michaelがいない時は、彼の部屋を倉庫として利用しました。また、私達が自宅で作業していることを知られたくなかったので、「Suite 38, 1278 Glenneyre」の私書箱を取得しました。」と、 Cooperは語っています。TomsonとCooperは3万ドルを資金としてブランドを立ち上げましたが、1 年と経たないうちに資金が底をついてしまいました。「MichaelはClyde Packerに会いにSanta Barbaraに出向きました。そして、ClydeはChester Rossを紹介してくれました。」と、Cooperは当時を振り返ります。これが、大きな転換期でした。Chester Rossは、Cole&Dietzというウォール街にある大企業の顧問弁護士をしており、映画産業にもかかわりのある人物でした。「彼は、私達の若さとパワ ーを気に入ってくれました。また、早くに息子を亡くしていたので、私達のことを息子のようにかわいがってくれました。彼は私達の顧問弁護士となってくれ、Chesterという経験豊富な人物がバックについているという大きな強みを手に入れました。まさに、私達の成功は彼のおかげです。」と、Cooperは話します。Joel CooperのいとこのBryan Friedmanは、南アフリカで弁護士として活躍していました。しかし、彼は南アフリカよりももっと大きな国へ移住することを考えていました。「彼は有能で、名の知れた弁護士でした。彼から突然、「私の保証人になってください。あなた達のために働きたいと思っています。」と、電話がありました。その時Gotchaは設立1年目で、私達のビジネスは順調に成長を遂げていました。しかし、売上金の徴収がうまくいかず、サーフショップからの支払いは滞っている状況でした。私は「Bryan、徴収係のポジションならありますよ。」と、返事をしました。」と、Cooperは当時をこう振り返ります。FriedmanがGotchaに入社したのは、1981年の夏でした。「事務所も住宅もすべて売 り払い、11月にカリフォルニアに行きました。Joelが空港まで迎えに来てくれ、車の中で「来てくれてなによりです。なにせ、私達は給料支払い簿の記入のしかたも知りませんので。」と、私に言いました。まさに、いいタイミングでした!」と、Friedmanは語っています。Friedmanが来て初めての夏は経営も 不安定でした。会社にはほとんどお金が残らず、さらに天候もひどい状況でした。「悲惨な夏でした。」
と、Friedmanは振り返ります。「太陽が全く出ず、毎日どんよりと曇っていました。私達の生活はトランクスを買ってくれるお客さんにかかっています。しかし、誰もトランクスを買ってくれませんでした!」経営の悪化が不満を生み、会社の存続が危ぷまれた時期にはTomsonとCooperの仲は緊迫した状 況になりましたロ一方のサーフィン仲間であり、もう一方のいとこであるFriedmanは二人の間に立ち、話しをするポジションでした。「Michaelの考え方は初めから明確でした。Joelのことは気にせず、事務所にもいつもいませんでした。彼のやり方は、「仕事は片付けばいいのだから、いつ、どのように片付 けたかは聞かないでください。いつも事務所にいると思わないでください。私は今もサーファーですか ら。」というものでした。Joelがよく事務所で不満を漏らしていました。「なぜ、事務所には私一人しか いないのでしょうか?」そして、Michaelが外に行くと、「何様のつもりですか?」と。二人の関係はかなり緊迫していましたが、事態はすぐに好転しました。Friedmanは13ヶ月後に退職し、弁護士試験を受け、顧問弁護士の資格を得ました。しばらくの間、彼にとってGotchaは唯一の顧客でした。「専門的な知識が必要な時は、Bryanが来てくれました。そうしなければ、金銭的に余裕がありませんでした。彼は本当に設立当初の重要な人物でした。」と、Cooperはこう振り返ります。Gotchaがアメリカに進 出して1年目、Cooperの父が自身の会社「Vance」をS.A. Clothingに売却しました。「Vanceが問題 を抱え、S.A. Clothingが経営を引き継いだ時、「サーファーに経営させるべきです。」、とMichaelは言いました。」と、Paul Naudeは振り返ります。Paulはこの時、ジャーナリズムの道を目指していました。
『Zigzag』の出版に加え、彼はフリーのライターでもありました。Gotchaとの関係を絶つべきではない、とTomsonは彼を説得しました。最終的にNaudeは、S.A. Clothingのためにその後12年間Gotcha の経営に携わりました。新しくアメリカで立ち上げた会社にとって、南アフリカと密接な関係を続けていくことが困難となる事態が勃発しました。80年代に国際的な反アパルトヘイト運動が活発となり、売上げにもこの影響が出ました。「設立当初は、全製品が南アフリカ製でした。皆、私達の製品を欲しがりますが、南アフリカ製は買いたがりませんでした。」と、国内セールス部長のGreg Garrettは振り返ります。




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製品についている生産国のタグを切り取ってしまうという案もありましたが、Cooperの案は工場を中 国、インド、インドネシアに移転するというものでした。「Joelはこうした点に関しては先見の明があります。以前はどのサーフ会社もそういったことは行っていませんでした。サーフィン界では、外国製のボ ードショーツを着用することは不名誉とされてきましたし、誰もが「香港製」と書かれたものを買うことに嫌悪感を持っていました。しかし、海外から製品を輸入することにより、私達は市場と独占し、急成長 を遂げることができました。」と、Garrettは話します。Mark PriceはBay of Plentyの若手サーファー


で、早くからTomsonが目をつけていました。彼はGotchaがアメリカに移転する以前にGotchaチームに所属していましたが、プロツアーに参戦するほどの腕前を持ち、参戦1年目には17位にランクインしていました。Priceは1980年にアメリカに渡り、2年間ツアーに参戦しましたが、その後はツアー から引退し、Gotchaに入社しました。「ビジネスの可能性だけでなく、仕事の内容にも興味を引かれました。Michaelは非常に強いカリスマ性を持っていて、特に当時の会社は彼の影響力が絶大なものでした。まるで彼自身が宇宙の中心のようで、プロツアーよりも重要に思えるほどでした。」と、Priceは 語っています。彼はすぐにTomsonの被後見人となりました。「私はいろいろな意味で幸運でした。 Michaelにもかわいがってもらいましたし、会社の規模が小さかったので様々な会談の場に出る機会 にも恵まれ、多くのことを学ぶことができました。」と、Priceは振り返ります。入社当初、PriceはCooperの下で日常的な業務を担当していましたが、彼自身はマーケティングに興味を持っていました。その後Tomsonと仕事をするようになり、Tomsonがどのように仕事を進めているかを観察する機会を得ました。「Michaelは独特の雰囲気を持っています。早い時期から仕事以外のことにも興味を持っていました。初期の原稿執筆に影響を与えたサーフィンだけでなく、無類の音楽好きであり、本もた< さん読んでいました。彼は何でも共有し、インスピレーションやモチベーションという点では決して自己中心的な決断をしませんでした。まさに、これが彼の魅力でした。」Shawn Stussyはオレンジ郡出身 のボードシェイパーで、70年代後半にLaguna Beachに移ってきました。しばらくは、Newport Beach のRussell SurfboardsでBruce Jonesが抜けた後釜の成形師として働いていました。そして、流行がパンクロックからニューウェーブに移行していた1980年にデザインを始め、ボードをピンクと青緑にスプレー塗りし、雫の形をした影を施しました。「ボードのシェイピング技術やグラフィックなど、Shawn Stussyのボードは独創的でした。」と、Mark Priceは話します。StussyがMichael Tomsonと出会うのも必然でした。Stussyは有名な地元サーファーであるDoug Buntingを通じてTomsonらに紹介してもらい、彼らのボードのシェイピングを請け負いました。その後Tomsonが、「こんにちは。私達は会社を経営していますが、仕事を探していますか?」と、Stussyに提案しました。「まだ会社が設立して間も ない時期で、最小限度の人員でやりくりしていました。」と、Stussyは後に語っています。Stussyが残した功績の一つは「Bubble Fish」と呼ばれたGotchaのロゴのデザインで、ハンドタグやデカールに利用されました。



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StussyがGotchaに在籍した期間は短かったですが、彼のデザインしたマークはその後も長い間使用されました。StussyにとってもGotchaでの経験は、その後先進的な服飾デザイナーとしての道を進む際に役立ちました。
彼は「Gotcha大学」から旅立ち、偉大になった初めての卒業生でした。「彼はデザインの経験がありませんでした。しかし、それまで出会った中では最高のグラフィックデザイナーで、そのタッチは誰も真似できませんでした。彼のサーフボードに描かれているデザインはTシャツにもなりました。また、彼はGotchaの新しいロゴもデザインし、そのロゴは最も評判の良かったロゴの一つとなっています。デザインは80年代のスカパンド、The Specialsの流れを汲み、角張っていてニューウェーブなものでした。」と、Tomsonは振り返ります。格子じまのマドラス木綿をデザインに取り入れるなど、新製品の開発の中心人物として、Stussyは80年代半ばのGotchaの急成長を支えました。
「私は高校時代、フリーマーケットに出店している人のような格好をしていました。長い丈のバミューダパンツをはき、見た目はRichard Simmonsのように、まさにショートショートでした。私はそうとも知らず、もっと丈の長いカーキ色のバミューダパンツを欲しがっていました。」と、Stussyは話します。膝丈のウォーキングショーツやボードショーツの出現はサーフィン界にとってもショートボード革命以来の大きな出来事で、70年代に流行した太もも丈のサーフトランクスは次第にその姿を消していきました。まさに、TomsonとStussyの創造力が成した変革でした。仲間からの助言に反して、Tomsonは格子じまのマドラス木綿を用いたさらに長い丈のウォーキングショーツの生産を始めました。それが予想をはるかに超える売上げを記録し、会社はますます成長していきました。ロゴのデザインや宣伝活動、新しい生産ラインの開拓などを担当したStussyが会社に在籍したのはほんのわずかな期間でした。彼が会社を去るのは、ある意味必然でした。Gotchaは急成長し、そしてStussyは自分の夢を追い求めました。「今振り返ってみると、サーフィン界が変革の時期を迎えていた頃、私達は若く、活気に溢れていました。純粋で本当に楽しかったです。毎回正しい決断を下したわけではありませんが、とにかく楽しく、創造力に富んだ生活を送っていました。とても有意義な時間を過ごせました。」と、Stussyは語ります。Oxnard出身の画家でサーファーのLorin Flemingは、Shawn Stussyを通じてTomsonに紹介されました。FlemingはStussyの幼なじみで、絵を描いていない時は建設会社で働いていました。 「私が入社した時Gotchaは設立2年目で、人手が足りていない状況でした。Shawnも働いていましたが、自分の道に進むために短期間で退職してしまいました。当時、私はShawnを通じて多くの作品を販売していました。週末にOxnardから町に出てきて、2~3,000ドルは稼いでいたと思います。」と` Flemingは話します。その頃、Stussyは自分の夢を追うためにGotchaを去り、デザインの担当者が 空席となっていました。「ある日、私はMichael Tomsonから電話を受けました。「こんにちは。洋服の デザインの仕事に興味はない?」と、聞かれ、私は「どうしたらよいでしょうか?」と、答えると、「一度 会社に来てくれれば分かりますよ。」と、彼は返事をしました。本当にこんな感じでした。」1980~81年頃、Gotchaはシンプルなビジネスを続けていました。生産ラインはフル活動しておらず、2、3個の製品のみを扱っていましたが、Tomsonは将来の壮大なビジョンを持っていました。「Michael Tomsonは、常に物事がこの先どうなるかを考えていました。彼は突拍子もないことを言いましたが、伝えたいことをうまく言葉にできなかっただけでした。私は自分でも驚くほど早く、彼独特の言い回しを理解することができるようになりました。彼は要点のみを伝えるため、私達は彼の意図を汲み取らなくてはなりませんでした。」と、Flemingは後に語っています。Flemingはすぐにデザインチームに溶け込み、Tomson の意図を理解してそれを社内に伝える役割も務めました。Mark Priceが「the filters」と名付けたこのメンバーが、プランドの独自性を維持していました。Mike Funkは、カリフォルニア州のPasadenaにあるArt Center College of Designで写真撮影を学び、OxnardではLorin Flemingのサーフィン仲間でした。最初にFlemingに連れられてGotchaの事務所を訪れた時、彼はGotchaが初めての顧客になると考えていました。



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最初の頃は無難な写真を撮っていました。「被写体を床に置いて、単にそれを撮影していました。」しかし、被写体への直接的なアプローチは捨て、もっと冒険的なコンセプトの下で撮影を行うようになりました。「私達は「もっとうまくできないかな?」と、考えました。Michaelは、「新しく、エキサイティングな写真を撮るにはどうしたらよいか?見たこともないような写真とはどのようなものか?新しいとはどう いうことか?」という視点で撮影に取り組んでおり、そこから話しを広げていきました。」と、Funkは振り返ります。彼はFlemingと共にレイアウトを決め、商品を撮影していきました。「ロックやパンクシーン の流れを汲んだニューウェ_ブの影響を大きく受けていました。暴れ狂い、あれこれズタズタに切り裂く。常にそのことを考えていました。Xerox社の機材は、撮影に最も重要なものでした。」と、Funkは話します。FunkはすぐにGotchaの社内写真家となりました。宣伝写真の多くはロサンゼルスの有名な写真家に依頼する中、彼はカタログ写真の担当者となり、Mike SalisburyやVigon-Seireeni、JohnVan Hamersveldなど、社外のアートディレクターと連携を取りながら仕事を進めていきました。当時からTomsonはサーフウェアをファッションとして考えており、アイデアを得るために第三世界のデザインやヨーロッパの洋服店にも目を配らせていました。まさに、「サーフ」がガラスのカゴから飛び立っていったのです。社内のデザイナーとアートディレクターが一体となって仕事を進める一方で、Tomsonはハリウッドにも目をつけ、Mike Salisburyを引き抜きました。彼は多大な影響力を持ち、Tomsonと共に Gotchaのイメージを作り上げていきました。彼らは二人で説得力のある挑発的な広告キャンペーンを展開しました。「Mike Salisburyは、Gotchaの成功のカギを握っていました。私達は感性が似ており、多くを伝えなくても彼はすぐに理解しました。そして、最適な写真家、スタイリストを揃え、コンセプトを形にしました。時には私が彼にコンセプトだけを伝えて、彼がそれを形にすることもありました。メディアの評価は分かりませんが、私の彼に対する評価はAAAです。」と、Tomsonは話します。Nick Bowerは南アフリカ生まれのロンドン育ちで、70年代後半にロンドンのSt Martin'sでデザインを学びました。
彼の同級生にはSadeやAdam Antがいました。「ファッションの中枢はロンドン、ミラン、パリで、東京も中枢とまでは言えません。」と、当時のBowerは思っていました。卒業後、彼はValentinoに就職し、しばらくして南アフリカに戻りました。その後再びロンドンに戻るまでの2年間は妻と共に Durbanに住み、そこでボディーボードを始めました。Bowerはサーフィン雑誌を講読しており、サーフィン界には精通していました。サーフィン雑誌の中でGotchaの広告を見たのが、Gotchaとの最初の出会いでした。「他の広告とは違い、ストレートではないという印象を受けました。そう、Gotchaの広告には熱意が感じられませんでした。特に私の目を引いたのは、Mark PriceがGotchaのショーツとシャツを着てビルの屋上に立ち、地平線を眺めている広告でした。サーフィン雑誌の広告としては一風変わっていました。」南アフリカの友人がMichael Tomsonに手紙を出すようBowerに提案しました。
「私はフリーランスで働こうと思っていましたが、軽い気持ちで出してみました。人生は何が起こるか分からないので、Tomsonからカリフォルニアに来るようにという連絡があるかもしれないと思っていました。」実際、Tomsonは毎週多くの選考写真を受け取っていました。「その多くは芸術作品としては素 晴らしいものでしたが、Nicholas Bowerのシンプルな作品はその中でも目を引きました。一行の文章と鉛筆画のスケッチです。「これだ。」と思いました。私はすぐにロンドンに行き、彼と会い、その場で決断しました。彼は洗練された感性と熱い心を持っており、まさに私が求めていた人材でした。」と、 Tomsonは語っています。80年代中頃には、Gotchaは絶大な影響力を持つようになり、コアマーケットのリーダー的存在となりました。服飾産業からも注目され、Gotchaに関する記事が新聞のライフスタイルやビジネス欄、『Adweek』などの雑誌にもしばしば載るようになりました。Gotchaはますます成長を遂げていきましたが、開拓者としてやることなすこと全てが未知のものでした。農業界自体もブランドも確立されたものではなかったので、Gotchaは試行錯誤を繰り返しながら成長していきました。「私達はトレンドを追いかけず、トレンド自体を作り上げていきました!」と、Tomsonは語っています。
「Gotchaは当時、何でもありでした。歴史もなく、次の生産ラインに乗せる商品も決まっていませんでした。周りに比較できるものがなかったので、ただ「やってみよう!」という感じでした。もちろん、当時はセーフティーネットもありませんでした。」と、Priceは当時を振り返ります。独創的かつ挑発的な広告展開によりGotchaの成長はさらに加速し、個人主義、反体制主義を掲げた「やってみよう!」精神というブランドイメージが定着していきました。サーファーの価値体系を確立し、ビーチだけでなく若者市場にまでその人気が広がっていきました。トランクス以外の商品も増やし、サーフィンにファッションを導入することにより、Gotchaはサーフィンを取り入れたライフスタイルをより大きな市場に広めていきました。Pacific Northwestに拠点があるZumiezの創設者Tom Campionは、80年代のサーフィンブームの裏でアクションスポーツの小売業を始めました。その後Zumirezが7、8店舗に増えた頃、 Gotchaの商品を扱い始めました。




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Zumiezは流行に敏感な子どもたちを新たに取り込み、彼らをアクションスポーツの虜にしました。「私たちは業界の先頭に立って走り続け、現在は240店舗にまで拡大しました。」とTom Campionは話します。「一番乗りは皆覚えている。」とCampionが言うように、Gotchaは何事も最初に実行しました。 Zumiezが初めて取り扱ったGotchaの商品は、ラグビーシャツです。「ラグビーシャツはサーフウェア でしょうか?もちろん違いますが、シャツにはFishmanのロゴが入っていて、きらきらと光るステッカーがおまけで付いていました。よく子どもたちがタグからステッカーを取り外して盗んでいたのを覚えて います。こういう商品を店に置きたいと思うでしょう?盗みたい人がいるということは、買いたい人がいるということです。」とCampionは後に語っています。1984年にGotchaは世界市場に進出し、さらに大きく成長していきました。「Gotchaは80年代後半にかけて成長を続け、社内はとても活気がありました。つまり、連日連夜パーティー状態ということです。私は弁護士として気が気ではありませんでし た。」とBryan Friedmanは話します。「当時の私たちにとっては、セックス、ドラッグ、ロックがすべてでした。Gotchaはロックバンドのようなもので、リーダーはMichaelです。小さなガレージから会社を始 め、業界の先頭に立ち、危険を冒すこともありましたが幾多の困難を乗り越えて大きく成長することができました。Michael TomsonはGotchaのフロントマンで、Mick JaggerがThe Rolling Stonesに欠かせない存在のように、MichaelなしではGotchaは成り立ちません。」とDoug Buntingは語ります。ロックの影響を受けた生活を送っていた頃は、行き過ぎた行動も目立ちました。「サーフィン界にはドラッ グが蔓延していて、Gotchaもそうでした。」とMark Priceは振り返ります。自分たちが作り上げた文化ということもあり、Gotchaも大目に見ていたところがあったのでしょう。「ただ、私たちは市場と本能に 基づいた関係を築いていたので、これも成功と言えるのかもしれません。実際、私たちはビジネスで 会う人と一般の人の区別がつけられませんでした。」とPriceは話します。ロサンゼルス出身でパリに移住したKenny JacobはGotchaに入社した当時、Freestyle社が取り扱う腕時計のヨーロッパでの 販売権を持っていました。「1985年にロサンゼルスに行った時に、弟のMarkがGotchaという新しい ブランドを見てみようと言うので、ショップに立ち寄りました。そこで私はサイドに大きなグラフィックが 描いてある白のDaddy-0トランクスを購入しました。これがGotchaとの長い付き合いの始まりです。ちなみに、今でもそのトランクスは持っています。」とJacobは話します。JacobはTomsonとCooper と会う約束をし、その年の9月にパリで開催されるSEHMショーでGotchaの夏の新作を紹介するという話しを持ちかけると、彼らは「分かりました。それまでに用意しておきます。」と返事をします。その 3週間後、マウイから戻る途中にGotchaに電話をし、商品を受け取りに行く旨を伝えました。Mark Priceが電話に出ましたが、彼は何も聞いていないと言います。「まさに大騒ぎでした。彼らはMichael Tomsonに連絡を取り、数日後にすべて用意しました。」とJacobは話します。
ChevignonやChipie、 Best Companyなどのヨーロッパのブランドはアメリカ文化の影響を強く受けており、カウボーイや戦 闘機のパイロットのイメージを多用していましたが、Gotchaの登場により彼らはサーファーのイメージも使用するようになりました。Jacobが国際貿易ショーでGotchaの商品を紹介した時には、商品を買い求める客や業者の長蛇の列ができました。「ヨーロッパは当時、戦争などの影響により陰うつで深刻な状況に陥っていたので、Gotchaの明る<,ユーモアに溢れていて反抗的なイメージはヨーロッパ 市場に受け入れられました。大人の反応はいまいちでしたが、子どもたちには大きなインパクトを与えました。まさにGotchaは暗いトンネルに光を差してくれた存在です。」とJacobは振り返ります。1985年にGotchaが急成長を遂げている頃、OpのTシャツ販売権を有するSTS GraphicsからBruce Friedmanを引き抜き、彼は海外業務の担当となりました。「当時、彼は金もうけの天才と言われてい て、Gotchaで働くにあたり給料の削減を申し出てきました。その代わりに、会社の利益の一部を彼に還元するというものです。Bruceは私たちが苦手とする分野を一手に引き受け、逆に私たちの得意な分野は私たちに任せてくれました。彼の入社後1年間で、会社の売上げは1.700万ドルから4,000万ドルになり、翌年には4,000万ドルから7,000万ドルに跳ね上がりました。Friedmanの入社により、多くの従業員はカルチャーショックを受けたようです。」とCooperは話します。




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「Gotchaはブランドカで勝負できる初めてのサーフ会社でした。」
Greg Garrett
Gotcha国内セールスマネージャー

Friedmanは徹底したコスト削減で利益拡大を図りました。「Bruceはセントの単位まで細かく気を配っていました。金の管理をさせたら彼の右に出る人はいません。」とCooperは語ります。しかし、 Friedmanは入社後すぐに、従業員との関係を悪化させてしまいます。「社内には無料で飲むことができるコーヒーが備えてありましたが、Bruceはそれを一杯25セントにすると提案しました。従業員は皆怒り出し、収拾がつかなくなってしまったので、すぐに無料に戻しました。」とCooperは話します。「彼 は従業員に好かれていませんでしたが、自分の役割を着実に実行していきました。当時の私たちは、私を中心にしてBruceとMichaelが両端に位置する三つの頭を持つ怪物のようで、絶妙なバランスで仕事をしていました。」とCooperは語ります。会社が成長するにつれて、Tomsonは取締役としての 仕事を他の人に任せ、デザインやマーケティング業務に集中するようになっていきました。その頃、南アフリカ出身のJeff Cowanを宣伝部の責任者として招き入れました。同時にMark Priceがマーケティング部の副部長となり、Shaheen Sadeghiが副社長に就任しました。
SadeghiはPratt Instituteでデザインの腕を磨き、国際製造業の知識も持っていました。以前は水着を専門的に取り扱うCatalinaや Jantzenで活躍をした彼は`入社後すぐにGotchaが今までに見たこともない方法でビジネスを手が けていることに気付きます。「Michael Tomsonは、物事を自由に考えるよう私に勧めました。まさに組織化されたカオス状態とでも言いましょうか。ルールを変え、前例を打ち破ることにより、Gotchaは奇跡的とも言える急成長を遂げたのです。また、私たちは常に綿密な話し合いをし、準備万端で仕事に取り掛かりました。」とSadeghiは振り返ります。Sadeghiはそれまでサーフィン界に足を踏み入れたことはありませんでしたが、発展途上のサーフィン文化にうまく溶け込んでいきました。




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Sadeghiはデザインに関しては何も言いませんでした。「彼らは素晴らしい音色を奏でていたので、邪魔をしたくありませんでした。これほど多くのオ能が集結した会社に出会ったことはありません。」と Sadeghiは話します。Michael Tomsonの親友であるNick Bowerはデザイン学を専攻しており、真の アーティストでした。また、彩色を担当したLorin Flemingやトランクスのデザインを手がけた若手サーファーのJack Pennyもその才能を存分に発揮していました。「才能ある人たちをうまく集めることができました。会社を経営する際に最も難しいことの一つは、販売力を付けることです。」とCooperは話します。1979年に入社したRoyce CanslerはGotcha初のセールスマンでした。彼はMAGIC(カリフォルニア州男性用衣料品同業組合)が開催したイベントでCooperとTomsonに出会い、アメリカに進出するには地元を知り尽くしているカリフォルニア人を雇用したほうがいいと彼らに提案してGotchaに仲間入りしました。Canslerは自分の車にGotchaの商品を載せてあちこち走り回りました。「私の営 業範囲はミシシッピー川の西側地域すべてでした。入社して最初の夏、Joelと私は7月4日に夏の 新作商品の売り込みをしていました。サーフィンシーズンを考えると通常はもっと早い時期に売り込みに行くのですが、南アフリカからの商品到着が遅れたのでやむを得ませんでした。私のフォルクスワーゲンでThe Pretendersを聴きながら、ロングビーチからオーシャンサイドまで15から20件のサーフショップを回りました。」とRoyceは振り返ります。Ken EngstromはCanslerのすぐ後に入社しました。 Engstromはサーファーではありませんでしたが生粋のセールスマンで、Canslerがサーフショップを重 点的に回るのに対し、彼は大口の取引先を開拓していきました。「Ken Engstromは会社設立当初の売上げに最も貢献した人でしょう。それまで出会った中で最高のセールスマンの一人で点まさに誰にでも何でも売っていました。格子縞のマドラス木綿を使用した商品がヒットした時も、ショップでの売り場スペースを確保する交渉をさせたら彼の右に出る者はいませんでした。」とCooperは話します。初めて倉庫付き事務所に移転した頃、CooperはOpの地域販売マネージャーを務めていたGreg Garrettを引き抜きました。「倉庫の大きさは、サンタクルーズにある私の家のガレージぐらいでした。


私が入社した時、Gotchaの年間売上げは1,500万ドルぐらいだったと思います。」とGregは振り返ります。
「海岸から離れた場所に住んでいる人にとってサーフィンの文化に触れることができる唯一の方法は、ファッションやスタイル、心構えでした。Gotchaはこのような人たちも取り込んで行きます。」




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落ち目といえどもOpと比べるとGotchaは小さな規模でしたが、会社全体には勢いがありました。まさに、頂点を極めるか倒産するかの状態でした。Garrettはまず、ビジネススタイルを構築するのに一役買います。「間違いなく、彼はGotchaの成功のカギを握っていた人物の一人です。彼がセールスミーティングに参加すると場の雰囲気は一変し、机の上に載っている物はすべて没収しました。」と Cooperは話します。Gotchaが成長すると同時に、販売力も上がっていきました。Greg Garrettは初 代の国内セールスマネ_ジャーに就任し、販売エリアを国内全域に広げていきます。Gotchaは設立 後最初の10年でコアマーケットを独占し、サーフショップだけでなくデパートでも販売スペースを確保 するようになりました。人々は新商品の発表を待ち焦がれ、サーフィンブームのピーク時にはGotcha の商品はまるでゴールドのように扱われていました。「私たちのセールスミーティングは緊迫していま したが、実際は仕事と親睦会を兼ねていました。会社には両方とも重要なものです。私たちの心構えはこうでした。「これは面白いビジネスです。楽しむこともビジネスも重要です。」セールスミーティング が終わる頃には、従業員はやる気に満ち溢れていました。また、販売担当者たちは私たちを信じており、人を殺害することも辞さない状況でした。」とCooperは話します。Gotchaでは年に2回セールスミーティングがあり、販売担当者たちはカリフォルニア州南部から離れたリゾート地に集合します。アリ ゾナ州でも2回ほど開催したことがあり、その内の1回はナパバレーにあるワインで有名な田舎町でした。中でも最も印象に残っているミーティングは、会社設立10周年のお祝いをしたニューオーリン ズで行ったミーティングです。「1989年でしたが、それはもう大騒ぎでした。300人ぐらいは出席していたと思います。ニューオーリンズで集まった時に、販売担当者たちがロウソクを10立てたケーキとテ キーラを持ってきてくれたことは忘れません。10周年を盛大に祝い、幸い私も若く、ニューオーリンズ のクラブも閉店しなかったので朝まで飲み続けました。」とCooperは振り返ります。「販売担当者の半分は二日酔いで使いものにならない状況だったので、その後の一週間は大変でした。地域セールス マネージャーの一人はニューオーリンズからダラスに飛び、ミーティングの予定が入っていましたが、空港で寝てしまい、飛行機に乗り遅れたためミーティングには間に合いませんでした。」とGarrettは話します。
サーフィンブームは様々な幸運が重なって起こりました。まず、ポスト・ベビープーマー世代がサーフィンに食いついて需要が増え、80年代前半の不景気から回復した経済も後押ししました。そして、サーフィンが唱える反抗主義と快楽主義が新しい若者文化に受け入れられました。サーフィンというと、多くの国では格好よくてエキゾチックな印象を与えます。海岸から離れた場所に住んでいる人にとってサーフィンの文化に触れることができる唯一の方法は、ファッションやスタイル、心構えでした。
Gotchaはこのような人たちも取り込んで行きますが、流行は好みやはやりの変化を前提としている反面、新規参入や新たな流行に侵されやすいということも言えます。また、衣料品は生活自体にも配慮 しています。経済情勢によって、成長は永遠に続くという幻覚を引き起こすこともあります。経済が冷え込み、サーフィンヘの傾倒の薄い中で生まれてきた流行は、サーフィン業界を根底から揺さぶりました。サーフィン業界の過去10年間の急成長は、実はぬかるんだ砂の上に成り立っていたと気付きますが`1980年代後半になっても、Gotchaは依然成長を続けました。何もない状況からのスタートでしたが10年間わき目も振らずに駆け抜け、コアマーケットを競ったライバルのQuiksilverに負けじと斬新なアイデアを次々と考え出していきます。まさにジャンク債マーケットの絶頂期で、Ocean Pacific もピークを迎えていました。その頃、Merrill lynchが新しい事業(Merrill lynch Interfunding)を始め、取引先の会社を探していました。Merrill lynchは1989年にGotchaに接触し、厳しい審査を経て両 者は合意に至ります。Merrill lynchはGotchaが所有する株式の40%を買い上げ、残りの60%は TomsonとCooperに残りました。「Michaelも私もあれほど多額の現金を見るのは初めてでした。」と Cooperは語ります。「私たちは昼食後に書類に署名をしましたが`冗談ではなく積み上げた書類は高さが60cmぐらいありました。契約後、私は愛車のBroncoに現金を載せて帰りましたが、ラグーナとノースショアに家を一軒ずつ建てられるほどの額でした。」とTomsonは振り返ります。




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「私は常に進歩のイデオロギーを売り込むことを心がけていました。当時の人々の生活は慣れ親しんだものに満ち溢れていて、「すごい、もう一度お願いします。」と言える刺激的なものに飢えていました。
しかし、私にとっては「一回やりましたので、次はまた新しいことに挑戦します。」という感じでした。」

Michael Tomson



第3章広告
大胆でセクシーなグラフィックと刺激的なキャッチコピーは、設立当初からのGotchaのスタイルでした。『Zigzag』など南アフリカの雑誌に初めて広告を掲載して以来、1990年代に入ってもそのスタイルは変わりません。
Gotchaの広告は常に型破りで、サーフィン文化がどのようにして定義されていったのか


というパラダイムの変化を表現しています。Gotchaは、映画『Gidget Malibu of Dora』以前のサーフィン界が持つ反社会的な精神に立ち戻りました。それまでのサーフィン広告は1960年代のサイケデリックな雰囲気を持っていましたが、Gotchaはサーフテクノロジーとサーフィン文化の大きな変化が状況を一変させた1970年代中頃に始まるサーフィンの新時代の幕開けをダイレクトに広告に盛り込み、ブランド名を売り込むためのアクションショットに頼らずにパラダイムを変化させていきました。また、 Gotchaは広告に性を取り入れ、ポストパンクの感性を古風で伝統的な世界に引き込み、その過程でサーフィンが定義したコアな価値観を変えていくことにより、利己主義な精神を奨励しました。1980年代、Gotchaは時代精神と同調してサーフィン界に反体制文化の基礎を築きますが、逆にそれが主流となっていきます。「私たちが考える会社象と実際の表現にずれが生じていました。サーフィン業界は私たちが現れるまでこの考え方に賛同せず、反社会的な広告は受け入れられませんでした。」と Michaelは語ります。




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Gotchaがアメリカに進出後、Tomsonはすぐにウェストコーストの広告業界に影響力を持つMike Salisburyに会い、広告展開について話し合いました。当時、会社の規模はまだ小さく資金も限られていましたが、Salisburyはこれを引き受けます。「彼はサーファーでしたので、その日のうちに承諾して くれました。資金の問題ではなく、私たちのビジョンに共感していました。」とTomsonは振り返ります。
その後6年間、彼らは協力して様々なキャンペーンを展開し、サーフィン界に衝撃を与えていきました。「私たちは誰もしたことがないことに挑戦しました。過去だけでなく、未来も含めて。」とSalisburyは話します。性的に興奮しているMartin Potterの広告(P40)のように、Salisburyは前衛的な広告を展開していきます。「影のあるセクシーさというものの表現を試みていました。母親が見て怒り出すような広告です。」とSalisburyは語ります。予想外の反応だったのは、Martin Potterのイメージの変化でした。「あの広告は当時の最先端を行っていて、私のイメージを一晩で変えてしまいました。サーフィン雑誌に載せるには卑猥すぎでしょう。」とPotterは話します。パンクキャンペーン(P42-P49)も画期的で、サーフウェアをまった<載せない広告でした。このキャンペーンは、Bruce DavidsonやLarry Clarkが 撮影したクラシックなイメージの都市の写真から着想を得ています。「私たちは1970年代のサーフィンに対するイメージを覆そうとし、白黒写真を採用しました。子どもたちの注意を引くために他とは違う広告展開を進めました。」とSalisburyは話します。P50-P52、P80-P82の折り込み広告は、Gotchaの広告史上最高傑作です。費用はかかりましたがインパクトも大きく、他社の広告にも影響を与えました。その中でも最も印象的な広告の一つは、「テロリストの少女」でしょう。未舗装の地面と落書きだらけの壁という環境は、サーフィンの広告として考えられないものでした。服装ではなく、武器を持っている少女が重要で、Salisburyが手がける広告の特徴を顕著に表しています。「性的なことを連想させると女性団体から非難を受けましたが、私たちは女性を積極的に起用しました。」おそらく、「メタルウーマン」は、Gotchaの広告のなかで最も風変わりなものでしょう。「私は最初からこの広告には不安を抱いていて、作品が完成した時もその出来ばえには納得がいきませんでした。イラストレーターは商品を正しく描いておらず、ボードショーツの丈が短すぎだったのですが、締め切りが迫っていたので差し替える時間がありませんでした。取りやめることも可能でしたが、コンセプト自体には魅力があったのでそのまま採用しました。」とTomsonは振り返ります。




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「Gotchaは誰もしたことがないことに挑戦しました。過去だけでなく、未来も含めて。」

Mike Salisbury
Salisburv Communications


P51 or P53 or P55
Gotchaは服を販売するだけでなく、文化も販売しています。アーティストとして私たちがすぺきことは、常にそれを頭に入れて商品を生み出すことです。私たちの文化は時代と市場に深く関わっています が、同時に違う魅力を持っています。子どもたちがGotchaを着るのは格好良いからです。格好良い 商品を作り出すためには、私たちを取り巻く文化についていかなくてはなりません。流行を追いかけるということではなく、創造力を働かせるということです。文化を活用して人生のコラージュを完成させてください。

「サブカルチャー」シリーズの広告は、混雑した中でサーフィンをせざるを得ない人や日雇いの仕事を している人の心に響きました。この広告は慣習などに従わない人やコアなサーファーの独断的な縄張り精神を利用しています。「頭の悪い人が多すぎる。」は皆がそう思っている的確な表現でした。「もし、サーフィンをしないのなら」シリーズの広告は、最も注目すべきGotchaの広告でしょう。大判カメラを使い背景を真っ白にするなど、洗練された手法で物議を醸したメッセージを表現しました。「もし`サーフィンをしないのならじっとしていなさい。」というメッセージを使うことによりコアなサーフィン界と他の文化を区別し、サーファーがパドルアウト時に悩まされている現状を取り上げました。「広告は衝撃を与えました。意味が分かる人たちは気に入ってくれ、反体制的なブランドの広告としてはパーフェクトでした。」とMark Priceは語ります。




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「コンピュータ」キャンペーンは、皮肉にもコンピュータを使わないで行われています。実施したのは 1987年で、世間はまだアナログ社会でしたが、その後のテクノロジーの進化は目覚ましく、まさにこの広告は時代を先取りしていたといえるでしょう。Gotchaの創造性は物事を背後から見て、まったく別 のところからアイデアを見つけるところから生まれます。まさに、このキャンペーンがそれを如実に示しているでしょう。




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1990年代初めの売上げ不振を乗り切ったTomsonは、雑誌『Surfing』に勤めていたボストン出身の若者Mike Gruszkaを招き入れました。彼は広告やカタログの製作、トレードショーのブースやショップでの売り場のディスプレイを担当することになります。Gruszkaは当初SalisburyやVigon Seireeniの流れを受け継いでいましたが次第に独自色を強め、「The Blue Cool」は当時最も成功を収めたキャンペーンとなりました。
「私たちが当時生み出していた作品の数は驚くほどのボリュームだったので、1、2回のテイクで広告用の写真を撮影していました。あれほど創造性に富んだ現場にいられたのは光栄なことです。」

Michael Tomson




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1990年代中頃は、レトロスタイルの復活が相次ぎました。ロングボードが復活し、ハワイ生まれのサーファーがサーフィン界を席巻、また、1950年代に流行したボウリングシャツやボタン留めのニットシャツ、Chet Bakerのチノパンが再び脚光を浴びます。その中で、Gotchaはウェアやキャンペーン、カタログに1950年代から60年代のジャズテイストを取り入れていきました。MichaelとGruszkaはすっかり意気投合します。「Gruszkaは私が今まで一緒に仕事をしてきた中で、最も優秀な人材の一人です。決して才能が飛び抜けているわけではありませんが、私とはウマが合いました。私は彼の作品の良いところを見つけ、それを伸ばしていきました。」とTomsonは話します。
「私たちはジャズレーベル「Blue Note」のテイストを取り入れた広告シリーズを展開するため、「The Blue Cool」と題したカタログデザインを前面に押していきました。」

Mike Gruszka
アートディレクター




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ニューウェーブが落ち目を迎えていた1980年代中頃、Tomsonはブランドイメージを一新するため、 John Van Hamersvefdに手助けを依頼します。Van Hamersveldは雑誌『Surfer』のカバーデザインを 手がけたこともあるRick Griffinと同年代で、1960年代にはロック歌手のポスターを手がけるアーティストとしてその名をとどろかせていました。また、Van HamersveldはThe Beatlesの「Magical Mystery Tour」のカパーデザインを担当したこともあり、その他にもBlue CheerやJefferson Airplane、the Rolling Stonesとも一緒に仕事をしたことがあります。これ以降サーフィン界との関わりが深くなっていき、Bruce Brownの「The Endless Summer」のポスターデザインを手がけた際には放浪するサーファ ーの印象的なイメージを採用しました。Tomsonは、自身と同じくVan Hamersveldがサーフィンと音楽に対して情熱を持っていることを見抜いていたのです。「Van Hamersveldは本当に頭の回転が速い 人で、何事にも精通していました。また、彼はグラフィックアートを集めた冊子を作成し、この中からは数多くのTシャッデザインが採用されました。商品や広告に関し、徐々に社内での影響力を高めていきます。」とMark Priceは語ります。

「これらの広告は、サンクレメンテのアッパービーチとエルカミーノマーケットで撮影したものです。とても暑く、サーフィンには最適の日でした。周囲の人たちの注目を浴びる中、撮影には2時間ほどかかりました。」




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「キャッチコピーを取り入れた広告やTyra Banksなどの有名タレントを起用した広告は、当時のアクションスポーツ界ではまれでしたが、Mike Salisbu内がハリウッドとのつながりを持っていたおかげで、私たちにはそれが可能だったのです。」

Michael Tomson




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「要するに、私たちはGotchaで冒険と実験の文化というものを作り上げました。私たちはチャンスをものにし、成功していきます。決して恐れることはありませんでした。」

Michael Tomson



第4章製品




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広告で前面に押し出した精神や心構えを具体化した製品を世に送り出さなければ、Gotchaの大成功はなかったでしょう。新製品を開発する際には過去の作品を捨て、サーフィンの「発展期」にサーフィンの腕を磨いた世代にターゲットを移しました。
まさに、「革新」がカギを握っていたといえるでしょう。 Gotchaは絶えずデザインの変更を行いました。デザインのインパクトが薄れる前に製品に手を加え、シーズンごとに新製品を発表しました。こうして、サーフィン界で新たなカテゴリーを開拓していきます。デザイン担当チームが仕事をする時は、競合他社よりも多くの種類のパレットを用意し、キャンバスも大きなものを使用していました。他社では見られない光景です。「私たちはトレンドを追いかけず、自分たちで作り上げました。」とMichael Tomsonは語ります。California Martが主催するOutstanding West Coast Designer of the YearのMarty Awardに2度ノミネートされたこともあるTomsonが、デザイン担当部署を取り仕切っていましたが、彼は単独ではなく、デザイナーたちと共同でデザインの作業を進めました。彼の指導の下、デザイナーたちはサーフウェアという枠組みにとらわれず様々なデザインのサーフウェアを手がけていきます。Tomsonは、当時巧みなグラフィックタッチで有名だったボードシェイパーのShawn Stussyを雇い、彼にウェアのデザインを指導しました。その後もTomsonはイタリアのValentinoで働いていたNicholas Bowerをチーフデザイナーとして招き入れます(Bowerはその後、Stussyのデザインディレクターとなりました。)。また`現在はLostのデザインディレクターとして活躍しているJim Zapataも採用しました。TomsonとJoel Cooperの卓越したリーダーシップの下でGotcha(後のMCD)は若い才能を育て、彼らは現在のサーフウェア業界をリードする存在にまで成長します。そのお返しに、彼らはGotchaの成長に大きく貢献しました。「Michaelは各デザイナーとどのように接するべきかすべて把握していました。必要な時は褒め、時には叱責し、彼らを鍛えていきます。当時は誰もが彼を喜ばせたいと思って仕事をしていました。彼が自分のデザインに満足してスタジオから笑顔で出て行くだけで、多くのデザイナーにとっては大きな意味がありました。」とLorin Flemingは語ります。現在のトップブランドの商品のほとんどは、少なからずGotchaの影響を受けています。かつてGotchaのデザインチームに属し、その後他社に移ったり自分のブランドを立ち上げた人には、Lost ClothingのJim Zapala、Vitamin AのAmahlia Stevens、QuiksilverのGuy StagmanとMatt Anderson、StussyのNicholas Bower、Honolua Bay Clothing Co.のEric Diamond、Howe Inc.の創業者のJade Howe、Blaふhart BrotherhoodのJohnny MonsonとChris Boland、MossimoのLissa Zwahlenがいます。1990年代初めにGotcha/MCDを去り、World Jungleを立ち上げたJack Dennyも病気により他界しなければ`サーフウェア業界に影響力を持つ人物になっていたでしょう。




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「今までに見たことがないような斬新なデザインを毎シーズン考え出さないデザイナーは、仕事をしていないとみなします。多くのアイデアは却下されますが、その中には光るものが必ずあります。失敗を恐れずに挑戦し、もし失敗しても再挑戦して最終的に成功するという姿勢が、革新という文化を作り上げる唯一の方法です。そうしなければ、自分の可能性を無駄にしてしまいます。」とTomsonは語ります。革新を続けることはブランドの個性やイメージにとって重要なことですが、Michaelによるとそこには落とし穴もあったようです。「私たちはあまりにも速く前に進んでいたので、マーケットが追随する前に新しい商品を開発してしまうことがありました。当時、競合他社は私たちの商品を参考にしていたようです。」Gotchaのデザイナーは「斬新な製品を作る。」という明確な指示が与えられており、彼らは 毎シーズンそれを実行していきますが、自由にデザインをさせることにより、様々な種類のロゴが生まれてしまいました。会社設立後最初の5年間で3つのロゴを採用しましたが、後にTomsonは失敗だったと認めています。「その反省を踏まえて、私たちはFishmanのロゴをGotchaのシンポルとして長い間使用しました。」とMichaelは話します。元々は三つ又の矛を持った半漁人がデザインされていた Fishmanのロゴは1985年に採用されました。しかし、サーフィン界のキリスト教保守派の人たちがネプチューンの三つ又の矛を邪悪なシンボルと解釈し、物議をかもします。そのため、矛は国旗に変更され、Fishmanはブランドの顔として世間に広まっていきました。「Fishmanのロゴは世界中のサーファーの不可解なシンポルとなりました。」と元Gotchaインターナショナル副社長のKenny Jacobは振り返ります。




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Gotchaは商品カタログも創造性に富んだものを作成し、新たな分野を開拓していきます。ロサンゼルスに拠点を置くアートディレクターのJay VigonとRick Sereeniと共同で作り上げたカタログは、多額の費用をかけて製作され、その奇抜なデザインでブランドのイメージ作りに大きく貢献しました。「カタログはブランドを売り込むためのものなので、商品と直接的な関わりがあるわけではありません。 人々が私たちに求めていたのは、過激で奇抜なカタログでした。」とMark Priceは語ります。Gotchaには「Water Proven」という水中撮影した写真を集めたカタログもありました。撮影はラスベガスで行われ、Michael Tomsonと戯れるトップレスの人魚の写真が印象的に仕上がっています。「それまでに経験したことがない撮影風景でした。私たちは漠然としたアイデアを持ってラスベガスに行きました。そこで丸窓のあるプールを見つけ、そのプールを撮影に利用しようと近くの安ホテルにチェックインします。最初はボードショーツを着た人たちをプールに落とし、その様子を撮影しました。」とSereeniは語ります。しかし、尾びれを付けた人魚のモデルをプールに入れるのには苦労したそうです。「モデルを務めるのは毎回Rickのガールフレンドたちでしたが、彼女たちは美人揃いだったので私は大歓迎でした。私たちはプールに入ったモデルの撮影を始めますが、Michaelが突然プールに入りたいと言い出します。実際MichaelはGotchaのカタログに毎号載っていて、Al伝ed Hitchcockのように何事にも参加したがる人でした。」と写真家のMike Funkは話します。




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カタログにとって重要な要素は、どのようにして物語に仕立て上げるかでした。Gotchaでは統一感を持たせるため、新製品を紹介する際に「物語」形式にすることもありました。Michael Tomsonはほとんどの広告やカタログのキャッチコピーを担当しており、彼の「一声」がGotchaに独自の個性と雰囲気を与えていたともいえます。カタログは新製品と神話を融合させた物語を発表する場となりました。代表作はVigon Seireeniが所属するデザインチームが担当した「Water Born」というカタログです。撮影はマウイ島のハレアカラ・クレーターで行われ、現地人風のエキゾチックなメーキャップを施したモデ ルが起用されました。Chagots (Gotchaの単語を真ん中で分割し、順序を入れ替えた造語)という名の絶滅した部族を主役としたこのカタログをTomsonは「概念的なおとぎ話」と呼んでいます。撮影の準備やメーキャップ、ポディペイントには多くの時間が費やされました。特に火山の山頂での撮影は、早朝3時に起きてメークをし、車で山を登り、暗闇の中をクレーターまで歩いていきました。すべての撮影には丸4日かかったそうです。「サーフィン会社が作成するカタログとしては、莫大な費用と時間をかけました。」とTomsonは話します。




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すり切れ加工のデニム、未加工の縫い目、そして細身のシルエットーGotchaは1986年の秋物コレク ションでデニムとアウターウェアを発表し、ゴム製のカバーが印象的なカタログとともに展示されました。
「ファッションは20年周期で流行するものなので、Nicholas Bowerが1986年に発表したすり切れ加 工のデニムが2006年に再度脚光を浴びているのもうなずけます」とTomsonは語ります。「カタログ を作成する際、私たちは毎回グラフィックを使用しました。この時は秋ということで、天気をコンセプトに決めます。新聞で見かけるような天気図をモチーフにし、低気圧を表す幾重もの円や矢印、暖気と寒気の前線を示すパール、雨や雪マークなどのデザインをまとめ、これらをコピーしてウェアにプリントし旦ました。コンセプトも素晴らしく、できばえも満足のいくものでした。」とデザイナーのLorin Flemingは振り返ります。カタログの写真撮影の際にはカリフォルニアを離れ、適した気候を求めてワシントン州に行きました。「素粒子のある白黒写真を撮りたいと思っていました。」とMark Priceは話します。 Gotchaのラグーナ事務所に勤務するメンバーがほとんどでしたが、撮影部隊は北を目指します。撮 影場所を探して海岸沿いを北上している時にインディアンが住む漁村を見つけ、撮影をするためにモデルのGreg Singleyがボードショーツー枚でパドルアウトしていきました。長時間水に浸かっていたわけではありませんが、「北緯が30度から40度付近だったので、Gregは低体温症で命を落とすところでした。」とPriceは話します。




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1980年代中頃から終わりにかけ、サーフィン市場は水着やTシャツ以外の商品も手がけるファッションの一つのカテゴリーとしてアイデンティティーを確立していきます。GotchaはQuiksilverと競い合うようにして市場をリードしていきました。Gotchaは1986年の秋にデニムとアウターウェアを発表し、 1987年の春にはニットウェアやボタン留めの織り布製品を開発します。Gotchaが従来タイプのウェアを新しく再生したスポーツウェアを発表したことにより、業界にターニングポイントが訪れます。カラーブロックを入れたシャツに写真をプリントする、ラグビーシャツのストライプを重ね刷りする、プリーツを入れないカーキ色のツイルパンツなど、すべては楽しむことを前提にして行われました。デザイナーたちは若者の着回しを頭に入れてデザインに取り組み、彼らの心をつかみます。この頃、Gotchaは「Earth life Animal Power」と題したカタログを発表しました。撮影を担当したPeggy Sirotaは、クロス プロセス処理されたカラーフィルムを用いてぼやけた印象の写真を撮影していきます。モデルが無彩 色の背景の前でポーズを取っているだけという極めてストレートな写真ですが、幅7インチ高さ18インチという縦長の背景によりスポーツウェアのカタログとしてはユニークな感じに仕上がっています。 Gotchaのカタログの特徴の一つは商品よりもコンセプトを前面に押し出し、ブランドを売り込むことでした。「カタログはイメージ的なものなので、インパクトを与えることが重要です。大物デザイナーがファッションショーを行うのと同じで、彼らもプランドのアイデアを売り込んでいるのです。火山でカタログを撮影したのも、そのためです。」とTomsonは話します。




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1990年代中頃は、レトロスタイルが流行しました。ロングボードが復活し、ハワイ出身のサーファーがサーフィン界を席巻、ボウリングシャツや1950年代に流行したボタン留めのニットシャツやChetBakerのチノパンが再び脚光を浴びます。 Gotchaはジャズレーベルの「Blue Note」がデザインしたカバーアートを取り入れた「The Blue Cool」と題したコレクションを発表しました。Vignon Sereeniがデザインを担当したこのカタログはレコードジャケット風の入れ物にカタログとライナーノート(解説文)が入っており、解説文には「回転数は33 1/3。すてきなノリのコンセプトが満載です。」と書かれています。カタログ用にジャズクラブの雰囲気を持つ写真を撮影するため、Gotchaはラグーナビーチにある「Sandpiper」を貸し切ります。「Piperはラグーナの子どもたちにとって誰もが経験する儀式のようなもので、常に粗悪なバンドや大音量の音楽、膨大な量のアルコールに溢れていましたが、Gotchaが貸し切った一晩だけはサックスやトランペット、ドラムが設置され、1950年代のニューヨーク52番街のジャズコンサートの雰囲気に変身します。ただ、演奏できる人は誰もいませんでしたが。」とTomsonは話します。Tomsonにとって、The Blue Coolのカタログと広告キャンペーンは「アクション」とアートを組み合わせてメッセージを伝えるという絶好の方法でした。アクションショットはデザインと融合し、 Gotchaのキャンペーンをより洗練されたものに仕上げます。




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1980年代初めに流行した格子縞のマドラス木綿を用いたウォークショーツは、Gotchaにとって単なるサーフィンウェアメーカーから脱却し、スポーツウェアメーカーとしての地位を築く重要なステップとなりました。マドラス木綿の商品がヒットした後Gotchaは方針を変え、エスニックをテーマとしたコレクションを発表し、こちらも大ヒット商品となります。「Rhythm Division」と題したこのコレクションはレゲエとグアテマラ模様を融合させたもので、すぐに売れ筋商品になりました。Rhythm Divisionシリーズからは 最初にウォークショーツが発売されましたが、前作同様デザインチームはコンセプトを掲げてすべて の衣料品カタログに掲載範囲を広げていきます。水着にデザインを転写させるため、クリエイティブ・ ライセンスを導入しました。カラーコピーした図柄にアレンジを加えた上で、明るい色合いを持つナイロン地のウェアの上にプリントをします。Tシャツの場合は、写真画像と手描きのマークを組み合わせました。Mike Salisburyは以前に広告キャンペーンを手がけた経験があったので、Rhythm Divisionシリーズのカタログの担当者となり、製品の裏側に隠されたコンセプトの形成に一役買いました。カタログはRhythm Divisionのエキゾチックな精神を完璧に表現し、「コレクションのストーリーを伝える。」というGotchaのカタログに与えられた責務をクリアします。




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「イベントやプロサーファーにかけた費用は莫大で、どのくらいかかったかは見当もつきませんが、私たちは投資を続け、それに見合った成果を上げました。」

"Joel Cooper



第5章イベント



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Gotchaは限界に挑戦する広告キャンペーンや革新的なカタログにより、前例を変えていきました。こ のGotchaの市場戦略は、その後のサーフィン業界に大きな影響を与えたといわれています。同時に Gotchaは売り場のディスプレイやトレードショーのブース、コンテストやファッションショーなどのイベントにも新たな手法を取り入れました。ファッションショーやパーティーを行うことにより、競合他社との違いを明確にしていきます。Gotchaは何事も派手に行いました。ファッションショーはセックス、ドラッグ、ロックに対するGotchaの姿勢を表現する場でしたが、まさにカオス状態でハプニングの連続でした。 Gotchaはイベントの担当者としてCheyne HoranやJohn Lydon (Sex Pistols, PIL)のマネージャーを務めたこともあるLarry Whiteを招き入れ、アーバインの舞踏場で行われたショーでは前例を作ります。
「会場に入りきらないぐらいの人が集まりました。ステージではJames Brownの物まねをした人がサ イケデリックなペイントを施した全裸の女性と一緒に流行の音楽に合わせて踊り、モデルたちもthe Cultの「She Sells Sanctuary」に合わせてステージ上を練り歩きました。すべてのアイデアは、ウェア を見てもらうためでした。その場にいたらこの雰囲気を肌で体験できたでしょう。まさに、画期的なイベントでした。」とTomsonは話します。また、アーバインのヒルトンホテルで開催した1987年の春夏製 品の紹介イベントでは、Princeの物まね師やティキ・ゴッド、ブレークダンサー、スパンデックスの水着を着た女性やスペースインベーダーも登場しました。広告やカタログで見られるGotchaの皮肉やユ ーモアは、これらのイベントでも随所に顔を出しています。ヒルトンホテルでのイベントでは、David Lee Rothの「I Ain't Get Nobody」に合わせて新製品が棒で空中に掲げられました。「パーティーは失敗でした。パーティーは参加することが目的のものなので、回を重ねるごとに規模が大きく、そして過激に なっていきました。私たちも彼らと一緒になってやりすぎた点もあると思います。ただ、あまりにも大きくなりすぎました。」とLorin Flemingは語ります。アクションスポーツ産業の成長とともに欠かせないも のとなったトレードショーでも、Gotchaの存在は際立っていました。長い間Gotchaで取締役を務めた Royce Canslerは、1979年の秋に開催されたMagic(カリフォルニア州男性用衣料品同業組合)主催 のトレードショーにGotchaが初めて参加した時のことを覚えています。「紺色のペンキを吹き付けた 縦4m横8mのベニヤ板2枚にGotchaのロゴを水色で描き、トランクスやコーデュロイのウォークシ ョーツをピンで留めていました。」とCanslerは話します。GotchaのブースはASR(アクションスポーツ小売業者)ショーでさらに進化します。Mike FunkとFlemingが最初のブースのデザインを手がけました。
「トレードショーが本格的に広まったのは、1982年か83年ぐらいだったと思います。当初はただブースに商品を並べるだけでしたが、1984年、85年ぐらいからは凝ったブースを作るようになりました。」とFunkは語ります。


「パーティーは失敗でした。パーティーは参加することが目的のものなので`回を重ねるごとに規模が大きく、そして過激になっていきました。私たちも彼らと一緒になってやりすぎた点もあると思います。ただ、あまりにも大きくなりすぎました。」

Lorin Fleming




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Quiksilverでビジュアルアートの責任者を長年務めたSteve Jonesは、Gotchaでそのキャリアを始めました。「私は1984年頃にGotchaに入社し、トレードショーでのブースのデザインを任されました。当時のブースはまだニューウェーブの影響が残っていましたが、私がプ_スに様々な図形を切り抜いたパネルを並べたところ、皆が一斉に食いつきます。業者が揃って「私のショップにも設置してほしい!」と言ってきました。このデザインは別の側面からブランドを売り込んでいきます。また、Gotchaはサーフィンブランドとしてはいち早くウィンドウディスプレイを取り入れました。」とJonesは話します。その後 10年の間にブースはさらに大きく、過激になっていきます。「1984年のブースとは比べものにならないほど創造性に富んだものになりました。」とFunkは語ります。「最初は単にガムテープでつないだだけでしたが、試行錯誤を繰り返し、お客さんからの反響も次第に大きくなっていきました。」とFlemingは振り返ります。ブースは製品だけでなく、ブランドのイメージを表現する場としても重要な位置を占めました。Gotchaのビジュアルを表現する際に中心的な役割を担っていたのは、ニューポートビーチ出身のサーフボード職人であるPeter Schroffです。「Peterはニューポートやラグーナでは少々変わった 経歴を持つ人物で、ロサンゼルスのアートシーン、特にパフォーマンスアート界と深い関わりがありました。」とMike Funkは語ります。Michael Tomsonは1985年にSchroffをデザイナーとして招き入れ、後にMark Priceの意向でマーケティングチームに配属となります。「これがMichaelのやり方で、何で もどこでも利用しました。社内にいるメンバーだけで業務をこなしきれなくなった場合、彼は外部に接触します。誰が担当するかということでいさかいは起こりませんでした。実際にやることは山のようでしたので。」とFlemingは話します。最初、Schroffはショップのディスプレイを担当することになります。
「私はサーフボードをイメージした柱をショップ内に設置しました。また、「Pink Whale」と名づけた全長 が16フィートもあるオブジェを置き、その中にエレキギターや水槽を飾ります。さらに、長さ18フィートのオブジェも作成し、中にはブッダの像を入れました。これを運ぶのは4人がかりでした。」とSchroffは話します。
その後、Schroffはトレードショーのブース担当を離れ、カタログのアートディレクターに抜擢されます。「トレードショーのプースデザインを考えるのはとても面白く、今までにない経験でした。」とSchroff語ります。SchroffはGotchaに5年間在籍した後、Quiksilverへ移りました。




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「当時はサーフィン界にとって一番良い時代で、若者文化だけでなく世界中に大きな影響力を持っていました。ラグーナやニューポートから流行を発信していたといえるでしょう。南アフリカからアメリカにやって来てこの現象を引き起こした彼らは、まさにカタリストです。」とSchroffは振り返ります。1980 年代の終わり頃には、Gotchaはトレードショーでも注目の的となります。中でも1990年代に登場した「Surf Shack」は群を抜いていました。「そのあたりにあった廃屋を解体し、会場で再度組み立てただ けでしたが、「Surf Shack」は私たちにとって大きなターニングポイントになりました。」とFlemingは語ります。Martin PotterはGotchaでその才能を開花させます。Potterはイギリスのパスポートを所有していますが、幼少時代は南アフリカで過ごしました。また、教養がありながらも100%ハードコアに浸かっているという変わった人物です。Martinは約10年間世界タイトルを保持しましたが、その頃には多くのファンがいました。Gotchaサーフチームのマネージャーを務めるMike Cruickshankは、1980年代後半にMartin Potterが参加したイーストコーストツアーでの出来事を鮮明に覚えています。「私たち はクリーム色のキャデラック・セヴィルに乗ってニューヨークを出発し、海岸沿いを走っていました。途 中でサーフショップに立ち寄ると子どもたちが彼に気づき、「あ、あの人だ!」とすぐに気付かれてしまいます。特に記憶に残っているのは、Potterが来店する予定を事前にラジオで放送したショップには 何百人もの子どもたちが集まっていたことです。また、7月4日の独立記念日の日にある橋の上で渋滞に巻き込まれた時も、15分おきにラジオから「あ、いました。橋の上にいます。Martin Potterです。」と流れてきました。まるでロックスターと一緒にいるようでした。」とCruickshankは振り返ります。カリフォルニア州北部の市場では水着コンテストやサーフィンのイベント、サンタクルーズではゴルフトーナメントのスポンサーを務め、Gotchaのブランドを広めていきました。「私たちはサンルイスオビス ポからオレゴンまですべてのサーフショップにチームヘの参加を依頼しました。その甲斐あって、イベ ントではとても激しい競争が繰り広げられますが、いくつかのショップでは部外者も参加させていたよ うでした。私たちは帽子やTシャツを作成し、協力してくれたショップには記念品を配りました。ゴルフ場から追い出された経験もあります。また、イベントの後に現地のレストランを貸し切ったこともありました。120人ぐらいの人が駆けつけたと思います。未成年者にもアルコールを提供する店だったので 多くの人が集まり、収拾がつかなくなってしまいました。しまいには警察がやってきたのでJoelと私は逮捕されると思い、裏口から逃げました。」とGreg Garrettは振り返ります。1980年代、Gotchaは若くて才能のあるサーファーのスポンサーを積極的に務めました。トップチームのサーファーはブランドの広告塔として広告やカタログに掲載されるだけでなく、ツアーにも派遣されます。当時はサ_フィンの ブームがカリフォルニア州南部を越えて世界中に広がっていたため、ツアーヘの参加はますます重要になっていきました。「ツアーは大成功を収めます。多くの子どもたちにとってスター選手を実際に目 の当たりにする唯一の機会なので、ツアーはとても貴重なものでした。特にイーストコーストでの反応 は大きかったです。」とツアー監督を務めたマーケティング部副部長のMark Priceは語ります。1980 年代後半にGotchaがオアフ島のサンディビーチで初めてGotcha Proを開催した時には、激しいやり取りが繰り広げられました。ハワイのセールス部門代表を務めていたJim Blewsterは、カリフォルニ アで行われていたイベントをハワイでも開催するというアイデアを持っていました。「パーティーを開き たいと常々考えていました。ノースショアもピッグウェーブも必要ありません。単にステージ上に水着 の女性を登場させ、BMXの曲芸や凧揚げのコンテストを開催したかったのです。」とBlewsterは話します。




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Michael Tomsonはサンディビーチを開催地として選びます。「私は女の子を集めたかったのですが、 Michaelは「いや、大勢の人を集めましょう。ここはコンサートアリーナです。」と聞き入れませんでし た。」とBlewsterは振り返ります。候補地は他にもありましたが、サンディビーチはコンディションが安定していました。「波はひどく、常に陸向きの風が吹いていましたが、一年を通して波がありました。」と Tomsonは語ります。サンディビーチには駐車するスペースを十分に備えた天然のアリーナがあり、また、ワイキキからも近くでした。「今回のコンセプトは「今までに誰も見たことがないようなコンテストを ハワイで開催しましょう。」でした。」とLorin Flemingは話します。審判やアナウンサー用の大きな舞台が設置され、Gotchaのロゴも目立つ場所に展示されました。イベントの規模も大きくサーフィンの質も高かったので、このイベントはいまだに語り草になっています。また、エンターテイメントの要素を加え るため、Gotchaは水着コンテストを開催しました。「女の子はイベントに活気を与えてくれます。少々 快楽主義的で行き過ぎた考え方ですが、それがロックであり、Gotchaが他のプランドとは一線を画していた部分でもあります。」とTomsonは語ります。Gotcha Proは4日間続きましたが、エネルギーはまったく衰えませんでした。「毎晩パーティーの連続でした。それまでにGotchaが手がけた中では最 も成功したイベントでしょう。ハワイではこれほど大きなイベントが開催されたことはありませんでした。」とBlewsterは話します。イベントは一般のサーファーの間でも大評判となり、会場は舞踏会の様相を呈していました。まさに文化的な一大イベントで、ビーチでの催しものもサーフィンコンテストと同 様に重要な要素でしたが、10年後には状況が変わります。世界で最も魅力的なサーフスポットであるタヒチのチョープーで行われたイベントでGotchaは主要スポンサーを務めますが、このイベントは純 粋なサーフィンのイベントでした。Gotchaが1998年に初めてTahiti Proのスポンサーを務めて世界 にその存在を広めるまで、チョープーの名はほとんど知られていませんでした。当時、ヨーロッパ地域の担当をしていたKenny Jacobがチョープーでのイベント開催を発案します。その頃のGotchaには 以前ほどの勢いはなく、サーフィンとは関係のないプロジェクトに力を入れていました。さらに、サーフィン業界ではイベントに対する反発も強い時期でした。「当時はフリーライディングが主流だったので、世界戦略を進めるには大きな抵抗がありました。」とJacobは話します。




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最終的にJacobは開催までこぎつけます。こうしてGotchaはチョープーで開催されるイベントのスポンサーを初めて務め、イベントではダプルオーバーヘッドの波が人々を魅了しました。「チョープーで 10フィート以上の高さの波を見た人はいませんでした。写真でも見たことありませんが、初めての Tahiti Proでは12フィートの波が起こりました。大げさではなく何千枚もの写真が撮影され、競合他社の広告にも自社チームに所属するサーファーがGotchaの競技用ウェアを着てサーフィンをしている写真が掲載されました。まさに、Gotcha Tahiti Proはサーフィン界の様相を一変させたといえるでしょう。」とJacobは振り返ります。2000年にBillabongがスポンサーを引き継ぐまで、チョープーで開催するTahiti ProはGotchaにとって重要なイベントでした。「私たちはイベントを3年間開催しましたが、年々規模が大きく、内容も濃くなっていき、雑誌社も大勢集まりました。」とTomsonは語ります。プロ モーションビデオが広まったのは1980年代で、トレードショーで配布したりショップの売り場に展示するなどブランドを売り込む方法としては効果的でした。Gotchaは早い時期から数々の名作ビデオを生み出しており、ビデオでは迫力のあるMTV風の編集を加え、Gotchaのロック的アプローチを表現しています。当時『Free Ride』のディレクターを務めていたBill Delaneyの協力の下、Gotchaは1986年に「Waterborn」と題したビデオを製作しました。




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Delaneyは撮影済みの場面の編集を主に任されましたが、これが将来への足がかりとなります。 GotchaはBrad GerlachやMartin Potter、Cheyne Horan、Matt Archboldなど、自社チームに所属するサーファーにスポットをあてたビデオを製作しました。中でもJeff Hornbakerが手がけた「Strange Desires」はPotterが世界タイトルの栄冠を手にした時期に撮影され、ミュージックビデオのような雰 囲気を持つ作品に仕上がっています。ビデオではPotterが「Walk This Way」の曲を口ずさむ様子など、Potterのカリスマ的な存在感が満載の作品となっています。
注目のシーンは、ベルリンの壁が崩壊する少し前の時期にPotterが現地を訪問する場面ですが、最も注目すべきシーンはPotterのダイナミックなサーフィンで、普段は気取り屋のPotterとはまた違った一面を見ることができます。
『Surfers: The Movie』はいろいろな意味で最高のサーフィン映画です。Bill Delaneyがディレクターを 務めたこの作品は、全米公開された最後のサーフィン映画の一つでしょう。しかし、実際はそんなノスタルジックなものではなく、Gotchaにとっても単なるプロモーションの一環という位置づけではありま せんでした。「Michaelにとってはサーフィンのありのままの姿を映した作品だったようです。サーフィンの当時の状況、Michaelたちが考えるサーフィンの意義、そしてサーフィンの将来像を表現した映画でした。」と映画のアートディレクターを務めたMike Funkは振り返ります。




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「私の人生は波とともにあります。あり金を使い果たすこともあります。両親や先生、警察、牧師、政治家、ニーボーダー、ウィンドサーファーたちがいろいろと私に言ってきますが、滝に落ちて岩に頭を打ちつけてしまえという感じです。私は人生を謳歌しているのです。サーフィンができなくなったら他にやりたいことを探します。ずっとそれの繰り返しでしょう。」

Miki Dora
『Surfers: The Movie』より




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映画の撮影には競合する他のブランドも協力しました。「McKnightもBillabongも出演を承諾してくれ ました。Gotchaにとって幸運だったのは、Martin Potterというスターがいたことでしょう。撮影を開始したのは、ちょうど彼が世界チャンピオンの頃だったと思います。」とDelaneyは語ります。『Surfers: The Movie』は過去に撮影されたイベント用のサーフィンビデオの雰囲気を持ちつつ、作品の構成に新たな試みを取り入れており、この手法はその後の映画でも頻繁に用いられています。「私の頭の中にあったのは、サーファーたちにABCショーからロックまで様々な話題について語ってもらうことでした。 Mick JaggerがThe Beatlesについて語るような感じで、ロックスターがロックスターについて話をするというコンセプトです。」とTomsonは話します。ハワイのサンディビーチで開催したGotcha Proの時 にもインタビューの撮影を行いました。また、ノースショアでは簡易スタジオを作り、ペイントを施した背景の前でインタビューの撮影をしていきます。さらに、Delaneyはオレゴン州との境にあるカリフォルニア州クレセントシティーに飛び、伝説のサーファーであるGreg Nollへのインタビューを敢行します。
「それまでに行った中でも最高のインタビューでした。しかも彼と1対1です。」とDelaneyは振り返ります。中でも一番の出来事は、その存在自体が神話と化しているサーファーのMike Doraが撮影に応じてくれたことです。
Tomsonの南アフリカ時代からの友人であるMichael GinsbergがDoraと知り合いで、Doraに直接交渉をしてくれました。そのことを耳にしたDelaneyのボルテージは上昇します。
「Doraは真のサーファーで、サーファーたちの憧れの存在でした。私自身も巧妙なテクニックを駆使したDoraのサーフィンのファンで、まさに私のアイドルです。Lopezと同様、Doraも高度なテクニックを持つていました。」とDelaneyは話します。世代の異なる2人の反逆児が一緒にサーフィンをするというコンセプトの下、DoraとPotterの撮影はメキシコで行われました。「Doraは私たちの考えを理解してくれましたが、Potterとの関係をでっちあげることには反対でした。」とDelaneyは語ります。Doraが追い求めていたことは「真正」です。インタビューもメキシコで行われましたが、映画で使用されたのはごくわずかでした。最高のパフォーマンスを披露するにはコンディションも整えなくてはなりませんでしたが、Doraも協力してくれます。DoraはベントゥーラにあるDelaneyの自宅の前にモーターハウスを止め、愛犬のScooter Boyとともに一ヶ月以上もそこで寝泊りしました。「私はDoraがインタビューの用意ができるまで待っていました。室内には2人しかいません。ダイニングルームに機材をセッティングし、開始の合図を送りました。」とDelaneyは話します。そして、素晴らしいインタビューが撮影でき ました。インタビューでは、サーファーとして送った人生のアナロギー、まさにDoraの世界観が語られています。「まさにMikeの世界でした。私は何もせずにただカメラのスイッチを入れただけです。すべて彼の判断で撮影は進みました。」とDelaneyは振り返ります。『Surfers: The Movie』は1990年の9 月にサンディエゴのASRショーで公開されました。「映画はまだ完成していませんでしたが、すでに仕上がっている55分だけ上映することにしました。」とTomsonは語ります。映画館は満席になりました。
TomsonとDelaneyがオープニングの場面を上映すると、スクリーンにはDoraの姿が映し出されます。
「誰もDoraが出てくるとは思っていませんでした。まさに、Michaelのアイデアの勝利です。」とMike Funkは話します。その後にDoraとMartinがメキシコでサーフィンをする場面が上映されましたが、やはりメインはDoraのスピーチでした。「私の人生は波とともにあります。警察や政治家、権力者が止めても私は彼らを追い払い、波乗りに行くでしょう。」「Doraのスピーチが終了した時には観客は総立ちで、館内は興奮の渦が巻いていました。」とTomsonは振り返ります。Dora、そして『Surfers: The Movie』は観客の心をつかみます。「Doraが出演することは誰も知らず、Doraの存在感の大きさに観客は圧倒されました。誰もこれほどの成功を収めるとは思っていませんでしたが、私たちは成し遂げます。まさに、Michael Tomsonの手腕でしょう。」とFunkは話します。




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「当時は他のサーフチームを見てもGotchaとは比べものになりませんでした。まさしく、私たちはサーフィン界を完全に支配していたのです。」


Mike Cruickshank
Gotcha Teamマネージャー

第6章サーファー




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20年にわたり、Gotcha/MCDは5人の世界チャンピオンを含む数多くのトップサーファーのスポンサ ーを務めてきました。これまでのスポーツの歴史の中でこれほど多くのスポンサーを務めたブランドは ないでしょう。MCDを設立した1980年代後半には、後に世界チャンピオンに輝 Horanは世界タイトル戦で4年連続2位に甘んじますが、翌年に行われた雑誌『Surfer』の投票では1位に選ばれます。




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「Horanは同世代の中でも最も創造力があり、刺激的なサーファーでべGotchaの成長にも大きく貢献してくれました。もっとノーマルなボードを使用していたら、多くの世界タイトルを取ることができたでしょう。」とMark Priceは振り返ります。Richardsの時代が終わると、Tom Carroll、Tom Curren、Damien Hardman、Barton Lynchがトップを目指して凌ぎを削るようになります。Horanは一時期ランキングを下げてしまいますが、1989年にオアフ島のサンセットビーチで開催されたBillabong Proで優勝し、復活を遂げます。ハワイでのメジャー大会で初優勝という劇的なカムバックを果たしますが、実はアクシデントに見舞われていました。HoranのキャディーはHoranが決勝戦に進んだことに気付かずにボードを車に載せて会場を去り、すでにカメハメハ・ハイウェイを走っていたのです。1980年代に入ると Martin PotterやBrad Gerlachといった若手サーファーが登場し、ランキングを駆け上がります。中でもPotterのオ能は群を抜いていて、HoranもPotterのオ能を見抜いていました。Potterの台頭とともに、Horanの存在感は徐々に薄れていきます。Potterが参戦して1年目の年、Potterはパイプラインにある家にHoranとMark Priceと一緒に住んでいました。TomsonはPotterとHoranに一緒にサーフィンをし、お互いの力量を確かめるよう提案します。「Cheyneは私の兄のような存在で、彼からはいろいろなことを教わりました。ヨガも教えてくれ、自分の体のケアの仕方や食事の摂り方も指導してくれました。常にコンディションには気を使っていて、まさしく一流のアスリートでしょう。」とPotterは語ります。

「Martinの才能は素晴らしく、群を抜いていました。Martin自身もそれには気付いていたでしょう。」

Mike Cruickshank




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「多くの人はCheyne Horanを誤解していました。本当の姿を知らずに、普段の行動だけで彼がどういう人間か判断していたと思います。当時の彼は他の人と違う視点を持つていました。他のサーファーのようにノーマルなボードを使うこともできたと思いますが、そうしてしまうと彼の個性は失われていたでしょう。Horanはあえて違う道を選び、皆とは異なるボードを使用しました。それが、彼を特別な存在とならしめていたのです。」とPotterは語ります。Martin Potterが南アフリカのダーバンにあるベイオブプレンティーでサーフィンをしていた頃、その才能がTomsonの目に留まります。TomsonがPotterのスポンサーを始めたのは、彼がまだ12歳の時でした。ダーバンで開催されたGunston 500でのパフォーマンスが評判を呼び、Potterは15歳でプロツアーに参戦します。「Pottz (Potter)はコンテストで初めてエアリアルを成功させたサーファーです。彼がエアリアルを決めた瞬間を捕らえた写真が雑 誌『Surfing』の表紙に掲載されると、彼の注目度は一気に上がりました。Potterのパフォーマンスはスピードがあり、観ている人をわくわくさせてくれます。また、普段の彼もサーフィンと同様にエキサイティングでした。」とTomsonは語ります。Tom Currenと世界チャンピオンの座を争っている時もツインフィンやスラスターシステムを用いるなど、Potterは常に最新の用具を取り入れます。Gotchaの創業時 にはHoranが広告塔の役割を果たしていましたが、PotterはまさにGotchaのイメージにぴったりの 人材でした。「Pottzは常に新しいことに挑戦する人間でした。見た目もスマートで、すべてがGotcha のイメージに合っていました。」とTomsonは話します。Potterはサーフィンにも熱心に取り組み、そして遊ぷのも派手でした。「Potterはニューヨーク・ジャイアンツのLawrence Taylorとよく遊んでいまし た。徹夜で酒を飲み、そして次の日にはバックドアでサーフィンをするという感じです。まるで一昔前のオーストラリアの学生のようで、一晩中パブで飲み明かし、次に日にはコンテストで優勝することもあ りました。」とBud Tour(PSAA)の元チャンピオンで当時Gotchaチームのマネージャーを務めていたMike Cruickshankは語ります。「人生は一度しかなく、チャンスも一回きりです。他の人と一緒ではなく、何か印象に残ることを成し遂げたいと思っています。Andy Warholの「人は誰でも15分間だけ有名に なれる。」という言葉を知っていますか?私に迷いはありませんでした。Michael Tomsonだけでなく、 Gotchaの従業員は全員活発で、創造力に富み、そして熱心に仕事に取り組んでいました。なので、私はGotchaに長い間所属していたのでしょう。」とPotterは話します。1989年にはGotchaもPotterもピークを迎えます。世界でも有数のフリーサーファーに成長したPotterは、ワールドツアーでも最高のパフォーマンスを披露します。「当初はサーフィンスタイルを変えず、勝負にこだわっていました。そのため、世界タイトルを獲得するまでに9年もかかってしまったのです。プロのコンテストの雰囲気や制限時間、ルールや規則、そして5人の審査員の判定基準に適応するのに長い時間がかかりました。プロのコンテストでは審査員にだけ良い印象を与えればいいのです。私は審査員ではなく、私のサーフィンを観てくれている世界中の人に最高のパフォーマンスを披露しようと思っていました。」とPotterは語ります。Potterはメディアからも大きな注目を集めていたため、会社からのプレッシャーも少なからず感じていました。「今までにコンテスト用のアンダーシャツを着ている写真が雑誌の表紙を飾ったサーファーはいないと思います。私がいろいろなイベントで観客を魅了しているうちに、次第に私のパフォーマンス時にはカメラが集まり、たくさんの写真を撮られるようになります。当時はGotchaにとっても私にとってもすぺて順調に進んでいたと思います。1980年代半ばから後半にかけてサーフィン界は成長し、会社も軌道に乗りました。私の給料も増大しますが、コンテストで優勝しなければならないというプレッシャーがのしかかるようになります。
「これだけ給料を支払っているのだから、優勝してくれよ。」とMichael Tomsonに言われたこともあります。」とPotterは語ります。Potterは世界タイトル戦に参戦し、好結果を残します。1989年のツアーでは開幕からの5戦で4勝し、シーズン中盤には独走状態になります。早々にタイトルを手中に収め、ハワイでの最終戦を終えるとPotterはGotchaに所属するサーファーとして初めて世界チャンピオンに輝きますが、ツアーで勝つためにPotterは自分のスタイルを変えなくてはなりませんでした。「コンテストでは100%を出し切るのではなく, 75%のカでサーフィンをしていました。100%では技を失敗する危険性もあります。75%の力に抑えて格好の良い、スムーズで失敗をしないサーフィンを心がけました。状況によっては、100%近くまで力を出すこともありましたが。」とPotterは振り返ります。1980年代後半にCruickshankがチームのマネージャーに就任 します。当時、HoranとPotterはチームの二枚看板でした。Cruickshankはまず、ノースショアのオフザウォールにチーム用の住宅を建てます。「住宅はサーファーたちが室内から波の状況を確認し、す ぐにパドルアウトしてサーフィンができる場所、というのが頭にありました。」とCruickshankは語ります。この住宅は共同生活、特に若手サーファーにはベテランのCheyne Horanの独特の生活スタイルに慣れる場所でもありました。住居内は常に緊張感が漂っていました。ライバル心とチームの結束が適度の緊張感を生み出していたのでしょう。しかし、ほとんどのメンバーは仲良く生活していました。




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「当時はそうそうたるメンバーが揃っていました。ほとんどはMichael Tomsonがスカウトしてきた人材でしたが、Tomsonはチームをうまくまとめていました。」とCruickshankは話します。何人かのメンバーはマリファナにはまっていました。Mark Priceは競技前や他のメンバーの前でマリファナを吸うことを禁止しますが、効果はありません。依然として雑誌への掲載、ツアーでのポイントを求めてサーフィンをするという業界体質がありましたが、Potterは他のサーファーに対して嫉妬するということはありませんでした。「Martinのオ能は素晴らしく、チームの中でも群を抜いていました。Martin自身もそれに気付いていたのでしょう。」とCruickshankは語ります。Brad Gerlachはサンディエゴ出身の若手サーファーで、1980年代中頃にMark Priceにスカウトされました。Gerlachのその横柄な性格はすでに有名となっており、ASPランキングを急上昇していきます。また、Gerlachはサンディピーチで開催された第1回Gotcha Proで優勝したDerek Hoの親友でした。Gerlachは華があり、創造性も豊かで、スマートで堅実なサーフィンをしました。「Gerlachのパックサイドスナップはとてもしなやかでした。」とTomsonは話します。また、Gerlachはユーモアのセンスがあり、よくチームメートを笑わせていました。
「Gerlachにマイクを持たせると、いつも漫談が始まりました。彼は頭も見た目も良く、サーフィンを引退した後でも成功を収めた数少ない人間です。」とTomsonは語ります。
Tomsonが「SuperiorMothers」キャンペーンの準備をしていた1980年代後半、Gerlachは別の機会を求めてGotchaを去り、1991年には2度の世界チャンピオンを誇るDamien Hardmanに次いで2位に食い込みます。 Derek Hoはオアフ島の東側に位置するワイマナロで生まれ育ちました。Derek Hoはノースショアでその名をとどろかせ、一時期はGotcha/MCDにも所属していたMichael Hoの弟です。「Derekの才能 は素晴らしいものがありました。天性の素質でしょう。」とTomsonは振り返ります。Hoは1980年代中頃にチームに加わり、Gotchaの経営が危ぷまれた時期もGotchaに残りました。「私はチームに18 年間在籍しました。素晴らしい会社で、彼らは家族以上の存在です。Gotchaチームに所属し、自分の好きなことをして給料をもらえるということは光栄でした。」とHoは話します。今までのGotcha/MCD チームの中でも、Derek Hoは一番練習していました。「Hoは誰よりも先に練習を始めていました。」と Cruickshankは語ります。サンディピーチで初開催されたGotcha Proの前には、Hoはチームメートであり友人のBrad Gerlachとともにサンディビーチで練習に励みました。「私はサンディビーチで毎日練習していました。もし、私を負かすサーファーがいるとしたら、Gerlachしかいなかったでしょう。私たちはスパーリングパートナーのような関係でした。」とHoは振り返ります。Gerlachが第1回大会を制しますが、翌年はHoがTom Currenを破って優勝し、その次の年には連覇を飾ります。「Derekはアメンボのようでした。どのようなラインを取るかを頭の中で組み立てる能力に長けていて、波が彼の思うままに動いているようでした。」とCruickshankは語ります。Hoは兄のMichael (1982年Pipeline Masters優勝)と同じく、1986年と1993年にPipeで優勝します。「Derekは常に自分のサーフィンに 自信を持っていました。何人かの人たちには生意気に映ったようですが、関係ありません。彼はそれ に見合う結果を残していました。Derekは時間にもきっちりとしていて、コンテストの会場に遅れる心配もありませんでした。」とCruickshankは話します。1993年にHoはタイトル獲得のチャンスを迎えます。 「前年は36位だったので、誰も私が勝つとは思っていませんでした。私は事前に綿密な策を練り、本番に挑みます。優勝するためには5人倒さなければなりませんでしたが、ツアーに参戦して以来最大のチャンスでした。私は持てる力を出し切り、最高のパフォーマンスを披露します。」とHoは振り返ります。Hoは1993年のPipe Mastersで優勝し、Gotchaに所属するサーファーとしては2人目の世界チャンピオンに輝きました。




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Hoは社内がゴタゴタしている時期もチームに残り、Tomsonが会社を去る直前まで在籍します。「最 高のパフォーマンスでした。その後もGotchaはいろいろと世話をしてくれ、彼らのサポートのおかげ で4回もトリプルクラウンを制することができたと思います。彼らには本当に感謝しています。私の父もサーファーでしたが、世界に目を向けることはありませんでした。私は最も恵まれている中国系ハワイアンです。なので、会社の経営悪化は悪夢でした。」とHoは語ります。Hoの成功はハワイのサーファー、特にオアフ島の東側のサーファーにとって大きな意味がありました。Gotchaはローカルプライドを活用し、Michael Ho、Gerry Lopez、Brock Little、Sunny Garciaをチームに招き入れます。ハワイ出身のサーファーが増えたことによりハワイでのGotchaの人気も高まり、一番のライバルである Quiksilverとは一線を画します。「Gotchaは賢明で、ハワイ出身のサーファーを数多くスカウトします。逆にQuiksilverやBillabongは主にオーストラリア出身のサーファーをスカウトしました。その結果、 QuiksilverやBillabongはハワイアンにハオレ(部外者)扱いされますが、Gotchaはハワイアンに受け入れられます。」とハワイの販売責任者であるJim Blewsterは話します。Brock Littleはオアフ島で生まれ育ち、高校は現地色が非常に強く、ハオレにとっては厳しい環境のカフク高校に進学します。しかし、Littleはその才能とタフな精神、また頭も良かったので、ハワイアンたちに溶け込むことができました。Littleは映画『From Here to Eternity』でも取り上げられた「U.S. Army's Schofield Barraks」でひと夏の間トレーニングを積んだこともあり、ボクシングの腕前も知られていました。Littleはそのような環 境で逆境に強くなり、彼の大胆なサーフィンは評判となります。「Littleは常に生きるか死ぬかという覚悟でサーフィンに取り組み、ワイメアも制覇します。」とBlewsterは語ります。Littleは真夜中に一人でワイメアベイに行き、満月の下で20フィートの波をものともせずにサーフィンをしたという伝説があり ます。Sunny Garciaはオアフ島の西側で育ち、1986年にサンディビーチで開催されたGotcha Proでデビューを果たします。Gotchaでの在籍期間は短かったですが、とても強い印象を残しました。 GarciaはSuperior MothersのメンバーとしてMCDの設立に貢献し、2000年にはチーム史上3人目の世界チャンピオンに輝きます。ハワイ出身サーファーの第一人者は、Gerry Lopezでしょう。「Lopezがサーフィンをすればモーゼのように波が二つに割れると言われていました。」とTomsonは語ります。
Lopezは1970年代前半に事実上一線から退きますが、現在も一流サーファーのオーラを放ち続けています。LopezはGotchaがランキングやタイトルだけにこだわっているのではないという姿勢を広めるのに一役買います。Lopezは真のサーファーでした。「Lopezは禅にも精通しており、会社に霊妙な雰囲気をもたらします。彼がチームに在籍することは、私たちにとって大変な名誉なでした。」と Tomsonは話します。史上最高のボディボーダーと称されるMike Stewartは、ボディボードを始めて から間もなくGotchaからスカウトされます。Stewartはその華麗なテクニックでサーファーたちからも一目置かれる存在となり、ボディボードの存在を世に広めました。「Mike Stewartは完璧なボーダーです。彼のパフォーマンスは素晴らしく、群を抜いていました。」とTomsonは話します。Stewartはいか なるコンディションでも決して恐れることはありませんでした。高さが20フィートの波でもアクロバティックな技を披露します。誰よりも遠くにテイクオフし、そして誰よりも長い時間水の中に入っていました。
彼の能力を疑う人はいません。「Stewartは正真正銘のアーティストです。Lopezと同様、Stewartのスポンサーを務めたことを光栄に思います。」とTomsonは語ります。Dino Andinoは南オレンジ郡出身で、トレッセルでは名の通ったサーファーでした。フロントサイドフローターを使用し、パフォーマンスの終盤で再加速するテクニックが評判となります。Andinoはサンクレメンテ出身の一匹狼サーファー、 Christian FletcherやチームメートのMatt Archboldと同世代で、彼らとはよきライバルであり、友人で もありました。Matt ArchboldはHoran/Potterの流れを受け継いだサーファーで、長いブロンドの髪と 典型的なサーファーのルックスが印象的でした。




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Archboldはプロの道に進む決心をし、Gotchaと契約を結ぶことになりますが、契約をかわす日に Tomsonとのミーティングを欠席してしまいます。「サーフィンに行っていました。私は16歳の子どもだ ったので、何も考えずにクリークに行ってサーフィンをしていました。Gotchaの人たちは私がより良い 契約条件を引き出そうとしていると思ったかもしれませんが、ミーティングとサーフィンのどちらかを選ぶとしたら、私はサーフィンを選びます。ビジネスマンではなく、サーファーですから。」とArchboldは 語ります。「ArchboldはPottzの後継者でした。」とCruickshankは話します。ArchboldはPotterのようなエアーをきめることができ、またPotterと同じく派手に遊ぶことも好きでしたが、Potterとは性格 が異なりました。素行の悪さからスポンサーとの関係がこじれ、プロとしてのキャリアに支障をきたしてしまいます。結局Archboldは競争という環境になじめず、ツアーから身を引きます。Gotchaにとってもタイトル獲得の可能性があるメンバーがツアーから脱退するのは初めてのことでした。「精神的に参ってしまいましたが、何とか回復しました。その後はコンテストには参加せず、フリーサーフィンをしようと決心します。その後はオフザウォールで自分の能力を発揮し、雑誌にも多くの写真が掲載されるようになりました。」とArchboldは語ります。1990年代前半のオフザウォールには、Archboldより優れ たサーファーはいませんでした。「Archyはメディアの注目を浴びすぎて精神的に参ってしまい、方向 転換を迫られます。才能に関して言えば、スタイル、しぐさ、何から何までSlaterにそっくりでした。」と Cruickshankは話します。ArchboldはSuperior Mothersのメンバーとして、Andy Ironsが登場するま での間MCDの看板サーファーとして活躍しました。「ArchyはMCDの存在を世界中に広めました。」とCruickshankは振り返ります。トレードマークの長い髪を切り、全身にタトゥーを入れるなど、 ArchboldはMCDのスタイルを自ら実践し、サーフィン界の新たな寵児となります。残念ながらKelly Slaterとは契約に至りませんでした。TomsonがMCDを始め、Gotchaがピークを迎えていた頃、 GotchaはサーファーとしてのキャリアをスタートさせたばかりのSlaterを熱心にスカウトします。
「Slaterは世界チャンピオンになる器でした。」とTomsonは語ります。しかし、Slaterが要求する給料の額は高すぎました。「当時のGotchaはLopezやHo兄弟、Pottz、CheyneSunnyArchy、そしてMike Stewartを抱えていたため、人件費には莫大な金額がかかっていました。Kellyは欲しい人材でしたが、彼を雇うには他のメンバーの給料を下げなければなりません。Gotchaは、最終的にチームを優先させました。『Su汁ers: The Movie』には、SlaterがGotchaのウェアを着ている意味深なシーンがあります。」とCruickshankは話します。「あの頃のGotchaチームは世界でも屈指の強豪でした。 Superior Mothersのポスターには当時のサーフィン界のスター選手が勢揃いしています。これほどのメンバーを集めることができたのも、Michael Tomsonの手腕によるところが大きかったのでしょう。 Gotchaの全盛期にはチームに入りたい、何かしらチームに関わりたいとすべてのサーファーが思っていました。契約を打ち切られてしまう可能性があると分かっていても、短い期間でいいのでGotchaに在籍したいと考えていたようです。Gerry Lopez、Matt Archbold、Dino Andino、Derek Ho、Michael Ho、Sunny Garcia、Mike Stewart、Martin Potter、Brock Little、Cheyne Horanなどのそうそうたるメンバーが在籍していた頃のGotchaは無敵でした。」とMartin Potterは振り返ります。




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1990年代初めにサーフィン界が不況に陥ると、各会社にもメスが入りました。サーフチームを含めた社内全体の人員削減が実施されます。会社にとって大人数のサーファーを雇うことは重荷となるため、メンバーを減らさざるを得ず、Gotchaも同様でした。「財政上の問題だと理解してくれたサーファーはごくわずかでした。」とMark Priceは語ります。人員削減のことを聞いたメンバー、特にブランドの構築 に一役買ったベテランは激怒します。HoranにいたってはGotchaとけんか別れとなってしまいました。
「経営がうまくいっている時期の待遇はハリウッド俳優並に素晴らしく、貯蓄もしていましたが]経営がうまくいかなくなると、給料もカットされ、会社も方針の変更を余儀なくされました。ずっとGotchaに在籍するつもりでいた何人かのサーファーは、ひどく落ち込んでいました。」とDerek Hoは話します。
「サーフィン界はある年齢に達し、見込みはないと判断されると解雇されてしまう残酷な世界だと誰も聞かされていませんでした。退職手当や年金制度もありません。そこに怒りを覚えました。まさに、ス ポーツ界の悪い点です。サーフィン界を一つだけ変えられるとしたら、そこでしょう。」とMartin Potter は語ります。「プロのアスリート、特にプロサーファーは大変な職業です。NFLやNBA、MLB、NHLの選手は引退してもテレビコメンテーターやスカウト、コーチやマネージャーなど、何かしらの仕事がありますが、サーフィン界には再就職先も少なく、結果的にこのような事態を招くこととなってしまいました。サーファーたちは若い頃からスポンサーやサーフィン界のために時間を費やしてきたため、プロを引退しても大学卒業の資格や手に職もなく、ポイ捨てにされてしまいがちです。他のメジャーなスポーツと比較してもサーフィン界は未熟で、このような問題が出てくるのは時間の問題でした。この件に関しては多くのサーファーが憤りを感じていました。」とMike Cruickshankは振り返ります。「避けて通れない問題でした。今振り返ると異常な時間を過ごしていたと感じます。Gotchaはサーフィン界の頂点に君臨していました。エディトリアルや広告、ウェアにおいても常に業界をリードし、前例を作っては他社の参考となる存在でした。当時はすべてがうまく進み、「昔に戻って何かをやり直したい?」と聞かれても、「やり直すことは何もない。」と私は答えるでしょう。」とPotterは話します。




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1990年代初めに起こった不況の傷も癒えた頃、Gotchaは復活の足がかりとしてサンディエゴ出身の若手サーファー、Rob Machadoを新メンバーとして招き入れます。Machadoは優れたオ能を持っていましたが素行も良く、Gotchaのメンバーとしては珍しく穏やかな性格の持ち主でした。「くだらないことをして純粋に楽しむというスタイルが主流のサーフィン界にとって、Robは新しいタイプの人間でした。 Robがよく遊んでいた人たちには麻薬中毒者や酒飲みはいなかったようです。」とCruickshankは語 ります。MachadoがGotchaに加入した1990年代はSlaterの時代でした。TomsonがMachadoをスカウトした頃、彼はまだ新参者でベテランサーファーたちがランキングのトップを占めていました。「私 がGotchaに加わった頃MCDはまだありませんでしたが、チームにはPottzやDerek、Dino、Archy が所属しており、ヘビーで個性的な集団でした。18歳の若者にとってこのメンバーの中に入ることはとても名誉なことでした。」とMachadoは語ります。1992年に世界チャンピオンツアーに参戦した MachadoはすぐにGotchaの新しい顔となり、地元であるサンディエゴ郡でのブランドの復権に貢献します。Machadoはサーフィンだけでなく、優れたミュージシャンでもありました。彼が所属したバンド「Sack Lunch」は、Gotchaがスポンサーを務めるイベントやプロモーション活動の場で演奏を披露します。「Robはミュージシャンとしても活躍しました。」とTomsonは話します。その後、Machadoと8度のチャンピオンを誇るKelly Slaterは一緒にバンドを組みます。その名も「The Surfers」で、メジャーレーベルからも注目されました。Machadoは1995年に世界タイトルに手が届くところまで行きますが、パイプラインでの重要なー戦で友人のSlaterにその座を奪われてしまいます。「パイプラインでの一戦でSlaterを破っていたら、Machadoは世界チャンピオンになっていたでしょう。」とTomsonは語ります。最終的にMachadoは世界のトップ3に2度入り、2000年のPipeline Mastersでは優勝を飾ります。 Machadoはサーフィンの腕前だけでなくその独自のスタイルでGotchaのブランドイメージの拡大に貢 献しました。1990年代に加入したChris Wardはワイルドな性格の持ち主で、チームにもすぐに溶け込 みます。Tomsonによると、サンクレメンテ出身であるWardのサーフィンスタイルはArchyの影響を受けていたそうです。Dino AndinoやMatt Archbold、Christian Fletcherがサンクレメンテで有名な存在だった頃、Wardも同じ場所でサーフィンの腕を磨き、世界チャンピオンになる素質を持っていると周囲から期待されていました。




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しかし、Wardが残した最大のインパクトはコンテストではなく、フリーサーフィンや時々起こす奇行でし た。「WardはPsycho WardやMental Wardと呼ばれていました。」とTomsonは語ります。1990年代、 WardはHoran、Potter、そしてArchboldが築いたGotchaの反逆的な精神の継承者として、Machado ののんびりとした人柄とは対称的な存在となります。「RobとWardはうまい具合に正反対の性格でし た。」とCruickshankは話します。10年経過してもGotchaの衰退は続き、新しい経営陣はサーフィンとは無関係の事業に手を出すようになります。経営の悪化によりGotchaは経費の削減を迫られ、サーフチームにも大きな影響を与えました。Tomsonにとっては辛いことで、マーケットでのシェアを失うのとはまた違った意味でショックを受けていました。「Michael Tomsonはチームのサーファーたちのために頑張ってくれました。彼は私を座らせ、「今までの経緯をすべて話してください。何が起きたのですか?いったい誰が何をしたのですか?」と私に尋ねました。彼は強い憤りを感じ、ツアーについても徹底的に調べ上げます。おそらく、彼はスカウト活動をする際もこのように徹底的に調べるのでしょう。 私たちの前で「もし、今プロサーファーになれるとしたら、Martin PotterかDerek Hoになりたいです。」と話していました。Derek Hoは当時Pipe Masterで、Michael TomsonはPipe Masterに対して尊敬の念を抱いていました。ラグーナに行く時は車にボードを積み、サーフィンをし、合間には取り留めのない話をするなど、サーフィンを満喫しました。『Surfers: The Movie』を見れば分かるでしょう。あれがサーフィンに対するMichaelの姿勢です。彼は頭からつま先まで100%サーファーでした。」と Martin Potterは語ります。
「最高のパフォーマンスでした。その後もGotchaはいろいろと世話をしてくれ、彼らのサポートのおかげで4回もトリプルクラウンを制することができたと思います。彼らには本当に感謝しています。私の父もサーファーでしたが、世界に目を向けることはありませんでした。私は最も恵まれている中国系ハワイアンです。なので、会社の経営悪化は悪夢でした。」

Derek Ho
1993年世界チャンピオン"




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「MCDは主観的な存在です。体制への反逆心そのもの、コアヘの回帰を表現しています。」

Michael Tomson"


第7章MCD




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1980年代終わりにかけてGotchaはサーフィン市場を越えて勢力を広げていき、中核をなすブランドに成長します。マスマーケットにもGotchaの名が浸透し、トレンドの形成をリードしていきました。 Gotchaは急激な成長を遂げますが、Michael Tomsonはこの成長は続かないと直感します。Tomsonの懸念は的中し、過剰な販売が原因でブランドの求心力は薄れていきました。Tomsonは「規模の拡大は商品の質を落とす。」というモットーを持っていましたが、まさにその通りとなってしまいます。 Gotchaはコアな顧客の信頼を失っていきました。




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そこで、TomsonとデザイナーのJack Dennyはコアな市場向けの新しいブランドを立ち上げる計画を練ります。Dennyは「filters」の一員で、早い時期から原点への回帰を強く主張していましたが、当時 の社内にはコアな顧客のためにブランドの姿勢を維持すべきだと考える人は、Tomson以外にほとん どいませんでした。「Jackと私はいつも意見をぶつけあっていました。体制を受け入れないように、と Jackは私を説得し続けます。」とTomsonは語ります。Dennyは何が「サーフィン」で何が「サーフィン」でないかを瞬時に判断しました。また、Gotchaは大きな市場でその勢力を伸ばしていたため、コアな 市場での影響力を弱めてしまうだろうとDennyは考えます。そして、MCDは原点への回帰を目的として設立されました。「MCDが求めたのは「リアル」です。1980年代の終わりにはサーフィンもすっかり商業化されていて、カリフォルニア州でも街にはネオンが輝き、人々はセンスの悪い服を着ていました。
MCDの姿勢は正反対で、心から信じられることを行うという自由な発想がありました。」とGotchaからMCDに移ったMike Savageは話します。新ブランドを立ち上げるにあたり、Tomsonは長年の付き合いがあるMike Salisburyに広告キャンペーンのアイデアを依頼しました。ブランド名は、Bashや Noiseなどの候補の中からMore Core Division (MCD)に決まります。この名称は『Surfers: The Movie』から来ています。「インタビューされた一人のサーファーがカリフォルニア州北部のサーファー を「more core than others(他の場所のサーファーよりもコアな存在)と表現していて、それが一番合 いました。」とTomsonは語ります。まずは、サーフチームとブランドコンセプトの紹介から取り掛かります。TomsonはGotchaチームのトップサーファーたちを起用しました。Martin Potter、Cheyne Horan、 Dino Andino、DerekとMichael Ho、Mike Stewart、Brock Litt!e、Matt Archbold、Gerry Lopezとサーフィン界のエリートたちが集結します。1989年の終わりにMike Funkがカリフォルニア州のコスタメサに所有するスタジオで、「Superior Mothers」と題した白黒の集合写真の撮影を行います。「彼らは全員チャンピオンの経験があり、それぞれが他のメンパーより実力が上だと思っていました。」とFunkは語ります。しかし、Lopezがスタジオに入ってくると、現場の雰囲気が一変します。「Lopezが現れると、全員が一列に並び、彼に敬意を表します。Lopezの指示の下、撮影もスムーズに進みました。」と Funkは振り返ります。Superior Mothersのキャンペーンは約9ヶ月間実施されます。一番初めの広 告は、コアなサーファーたちの信頼を勝ち取るために非常に重要なものでした。「Michael Tomsonは 実力、フリーサーフィン、知識において、サーフィン史上有数のヘビーなチームを作り上げます。アフリカ人、オーストラリア人、カリフォルニア人、ハワイ人と世界中のサーファーが勢揃いし、まさに Superior Mothersでした。」とDerek Hoは話します。最初の課題は、MCDをGotchaから切り離し、 独立したブランドとして確立させることでした。「設立直後は、「MCD by Gotcha」と名付けました。マー ケティング上の戦略で、同じ会社からのブランドということを浸透させていきます。」とサーフィン業界と長い付き合いがある弁護士、Bryan Friedmanは語ります。しかし、この名称を使用したのはごく短期間で、MCDがコアな市場での足場を築くとすぐに二つのブランドの違いが明確化されました。まずは、ブランドのロゴをデザインします。ロゴのデザインはDennyが担当し、皆でアイデアを出し合っていき ました。Johnny Monsonにも手助けを依頼し、ロゴの作成に取り掛かります。「Michael Tomsonは私 がMCDの精神を共有していると見抜いていました。」とMonsonは語ります。MonsonとTomsonは 様々なロゴのデザイン案を考え出します。「Michael Tomsonは、MCDにミリタリーの雰囲気を加えた いと思っていました。」とMonsonは話します。Gotchaとは違い、MCDのロゴは長い間変わりません でした。デザイナーたちがTシャツなどのデザインを手がける際に少々タッチを加えることはありましたが、MCDは徹底してコア、そしてリアルな姿勢を貫きます。自身の会社を立ち上げるということで 1991年にJack DennyがMCDを去り、代わりにJohnny MonsonがMCDに加わります。Monsonは それまでの流れを汲み、ボードショーツとタトゥースタイルを前面に押します。「ある時、「Gotchaや Quiksilverでの経験にとらわれるな。」とMichael Tomsonに言われました。また、Tomsonは「すべて の商品、広告にロゴを入れるように。」と指示します。ブランドのイメージを広めるためにはイコノグラフィーが重要でした。Michael Tomsonは数多くの奇抜なアイデアを考え出していきます。」とMonsonは振り返ります。MonsonがMCDを去ると、Brett Walkerを経て1992年にJim Zapalaがシニアデザイ ナーに就任します。




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Zapalaはコアな商品を次々と発表していきました。南アフリカ出身のサーファーであるMike SavageはMCDの商品やデザインの監督役を依頼されます。当時、SavageはGotchaのボードショーツを3年間ほど販売していました。「Gotchaのスタイルを活用すれば、10万枚は売ることができたと思いますが、Michaelはそれを望んでいませんでした。
MichaelはMCDに誇りを持ち、何よりも信じていました。Gotchaとの決別です。人々は、MCDを「Michael's Clothing Division」と椰楡しますが、彼の表現 したいことがMCDにはありました。」とSavageは語ります。MCDの設立後、サーフィン界の雰囲気はソフトな傾向に進みますが、Tomsonの意志は揺らぎませんでした。「ミーティングでもMichaelは部屋に入ってくるなり「ただ商品を売ることに集中しなさい。」と言うだけでした。もし、妥協してスタイルを変えていたら、いや、私たちにスタイルを変えるという選択肢はありませんでした。Michaelは妥協という言葉を嫌います。」とSavageは話します。MCDはすぐに上昇気流に乗り、最先端のサーフブランドとしての地位を確固たるものにします。TomsonはMCDにある教訓を教え込みます。「売り過ぎるな。」と。「マスマーケットに依存することは、ブランドにとって致命的になるとTomsonは分かっていました。ブランドの存続は、コアな顧客の支持がすべてです。」とMonsonは語ります。デザインチームは自由に商品のデザインに取り組みます。「私たちがMichaelのアイデアを形にし、Michaelは全体の舵取りを担当しました。MCD設立直後のMichaelは強力な発言権を持っており、通常は5時間かけて行うことを彼は5分で伝えていました。Michaelはプレゼン能力も高く、一つのアイデアに時間をかけずに 次々とアイデアを発表していきます。また、彼はオフィスのエアコンを一番強くしていました。私が「Michael、寒すぎて室内には5分といられません。」と言うと、「それが狙いです。」と返ってきたこともあります。」とSavageは振り返ります。Superior MothersのキャンペーンはすべてTomsonが取り仕 切り、Mike Salisburyがサポートの役割を果たします。MCDは当初、白黒の広告を使用しました。「もし、カラーの広告を使用していたら、状況は違っていたでしょうが、Michaelは拒みました。Michaelは 威圧的で、周りを寄せ付けない雰囲気を広告に出したいと考えていました。」とSavageは語ります。 Superior Mothersのキャンペーンが軌道に乗り始めた頃、Matt Archbold以外の大多数のサーファーはまだGotchaを支持していました。Archboldは1980年代にタイトルを争っていた頃のトレードマークだった長髪のブロンドヘアーを捨てます。1990年代のArchboldはオフザウォールで大きな影響力を持ち、全身にタトゥーを入れていました。Archboldは、MCDの一つの方向性を示します。「私は単にタトゥーが好きなだけでした。MCDはタトゥーを取り入れ、反逆的でよりコアなイメージ作りを展開しま す。」とArchboldは話します。ArchboldはMCDの顔として、ブランドの信頼を保証する存在となりま す。「Archyほどリアルという言葉が似合う人はいませんでした。彼はサーフィン界のヒールです。 MCDのイメージを顕著に表していたのは、MCDのボードショーツを着たArchyを背後から撮影した 写真で、首には「Built for Speed(スピード命)」とタトゥーが入っていました。」とMike Savageは語ります。「Michaelは、MCDにアウトローなギャングというイメージを持たせようと考えていました。ガイコッとクロスボーンのような、悪者のイメージです。なので、Michaelは私を起用したのでしょう。確かに当時の私は悪者ではなかったと否定はしません。今は私も落ち着きましたが、あの頃のイメージは払拭できません。」とArchboldは話します。




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Dave Gilorichは、雑誌『サーフィン』のアートディレクターを務めていたMike GruszkaをGotchaに招き入れます。Gruszkaはボストンで育ち、ニューイングランドの美術学校を卒業後、ウェストコーストに移り住みました。最初はロングビーチに拠点がある雑誌『Cycle』の仕事に携わりますが、すぐに『Surfing』誌に引き抜かれ、再び引っ越すことになります。GruszkaとTomsonはすぐに意気投合し、 Tomsonは次のキャンペーンをGruszkaに任せようと考えました。SalisburyはMCD設立当初のキャンペーン展開に貢献し、Gruszkaがこれを継承します。「私がMCDで仕事を始めた頃、MCDはArchy一色でした。MCDはアンダーグラウンドな存在としての地位を築き、トランクスを重点的に取り扱っていました。Michael TomsonとZippy (Zapala)は数多くの素晴らしいデザインを考え出していきます。」と Gruszkaは振り返ります。Gruszkaが最初に手がけたキャンペーンはニページの広告です。一つのページにはサーフィンのアクションショット(通常はArchboldを起用しました。)、もう一方のページではボードショーツをクローズアップしました。当時の広告は主に白黒でしたが、キャンペーンが展開される につれカラーの広告も使われるようになります。広告ではブランドのコアな価値観を前面に押し出し、ブランドの信頼を維持します。「徹底したその姿勢は見事でした。リアルで、突き抜けていました。 Michael Tomsonは様々なアイデアを引き出し、それを素晴らしいものに仕上げていきます。」と Gruszkaは話します。MCD設立当初からのスタイルを一番顕著に表している広告は、「Built for Speed(スピード命)」でしょう。「シンプルかつ印象に残る言葉を採用しました。「Built for Speed」はす べてを語っています。コンセプトは、「よりコアに、速く、そして荒々しく」で、それがMCDの提唱するライフスタイルでした。」とGruszkaは話します。MCDはArchboldをフォーカスしたビデオを製作しました。タイトルは『Addiction』です。映像は白黒で、Archboldのフリースタイルサーフィンと反逆的なイメージをMCDのイメージと融合させた作品に仕上がっています。タイトルはArchboldのサーフィンに対する姿勢を表していますが、他の意味合いも含んでいて、MCDは安全策を取らずに常に危険に立ち向かうという心構えも表現しています。MCDは趣向を凝らした試写会を実施し、Tomsonは1980年代のGotcha在籍時に発揮した才能を再び披露します。




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MCDはカリフォルニア州のコスタメサにあるスタジオを貸し切り、内部をアンダーグラウンドな雰囲気に改装します。サンクレメンテのメンバーが全員集まり、地元の悪者のために手を貸してくれました。
会場の入り口にはGruszkaが製作した道化師の顔の巨大なオブジェを設置し、入場者はその口を通って会場に入りました。「この口は10フィートの高さがあり、アンダーグラウンドなお祭りへの入り口を表現しています。ビデオは巨大なスクリーンと床に設置されたテレビに上映されました。」とGruszka は語ります。1990年代に入ると、MCDは新たな問題に直面します。Gotchaで内紛が起き、MCDにもその影響が降りかかります。MCDは徹底してコアにこだわり、順調に成長を続けていましたが、売上げはGotchaが設定した目標額に達していませんでした。1990年代中頃にGotchaに新しい経営者 が就任すると、コアにこだわることは最優先事項ではなくなります。同時にTomsonの発言力や影響力も小さくなっていきました。「私はMCDの硬派な雰囲気が好きでしたが、状況は一変してしまいます。何があったのか詳しいことは知りませんが、ただ「何が起きているのか?」という感じでした。Michael Tomsonはこの騒動の当事者でしたが、Michaelは常に夢を持ち、それを叶えてきました。それが急に 会社での影響力を失い、他のメンバ_がそれを受け継ぐことになります。平凡な会社になってしまいました。」とMatt Archboldは振り返ります。Tomsonは懸命にMCDの存続を図ります。1990年代後半、Tomsonは限られた資金でGotcha/MCDのイメージに合う、俊敏性、創造力、大胆さ、そして才能を兼ね備えた人材の発掘にあたりました。そして、当時から周囲の注目を集めていたAndy Ironsが 候補に挙がります。IronsはTomsonが求めている才能をすべて持ち合わせていました。「Ironsは Martin Potterが若い頃と同じ雰囲気を持っていました。サーフィンをしている姿を見れば、すぐに分かります。」とTomsonは語ります。Jim Blewsterは、カウアイ島に拠点があるHanalei Surf Company社時代からAndyと兄弟のBruceの知り合いでした。BlewsterはIronsとTomsonのミーティングをセッティングします。「Michaelがやって来て、私のサーフィンを静かに2、3度見学しました。私の実力を見極めていたのでしょう。」とIronsは話します。「MichaelはAndyと一緒にパドルアウトしていき、そして腕を組んでボードに腰を下ろします。まるで、「では、あなたの実力を見せてください。」という感じでした。最初に4フィートの波が来ると、Andyはエアリアルを披露します。Michael Tomsonはその時点で契約を決めていました。」とBlewsterは当時の状況を鮮明に覚えています。ラグーナの人気サーファー、Steve ClarkはMCDと長い付き合いがあり、1997年にサーフチームのマネージャーに就任します。 TomsonはAndy Ironsの才能を高く評価していました。TomsonはClarkにも、「Ironsは世界中にイン パクトを与えるサーファ_になるでしょう。」とだけ伝えます。QuiksilverもIronsの獲得に乗り出し、高い契約金を提示しますが、MCDにはよりコアな存在としての信頼がありました。Tomsonはオ能を見抜く目があり、そして誰よりもサーファーというものを理解していました。TomsonはIronsの争奪戦に勝利し、Ironsの輝かしいキャリアの第一歩をサポートします。その後IronsはMCDの顔となり、初めての世界タイトルを目指して争っている時もTomsonが寄せてくれた信頼への感謝を忘れませんでした。
「Michaelは、私がプロとしてのキャリアを始めた頃から私の才能を信じてくれました。私は高校卒業と同時にMCDと契約を結びましたが、プロとしてスムーズなスタートをきることができるようMichaelはいろいろとサポートしてくれます。また、プロサーフィンという厳しい世界で生き残る術を教えてくれました。」
「Michaelは、私がプロとしてのキャリアを始めた頃から私の才能を信じてくれました。私は高校卒業と同時にMCDと契約を結びましたが、プロとしてスムーズなスタートをきることができるようMichaelはいろいろとサポートしてくれます。また、プロサーフィンという厳しい世界で生き残る術を教えてくれました。」

Andy Irons




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「急激な成長は、すべてを失います。」
Tom Campion Zumiez Inc.代表

第8章清算




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1980年代の急成長により、Gotchaは業界をリードする存在となります。Gotchaはトレンドの最先端を走り、「サーフィン」を一般に広め、その存在は若者文化にも浸透していきますが、業界全体が不況に陥ると、Gotchaも大打撃を受けます。「不合理な成長」と呼ばれる時期でした。しばらくして市場は持 ち直しますが、低迷の時期は続きます。特にGotchaは厳しい現実に直面しました。サーフィン業界の雰囲気は、10年前とは一変します。また、同時期に発生した経済の落ち込みが原因となり、サーフィ ン業界だけでなくすべてのアパレル業界は人員削減の必要に迫られます。「Gotchaが販売網を広げ、あまりにも大きな存在となったのがすぺての引き金でした。マスマーケットの影響を直接受けることは 必然でした。」とMark Priceは語ります。Gotchaはブランドの信頼を売ることにより、成長を遂げてきました。コアな顧客からの信頼がなければ、サーフィンがファッションに取り入れられることはなかったでしょう。大きな変化でしたが、彼らは自信を持っていました。「1980年代の終わり頃、マーケティングや商品開発の責任者たちは本能のままに動いていました。私たちもかつては消費者でしたので、マーケットを分析する必要はなく、瞬時に正しいか間違っているかの判断を下すことができました。そうすることにより、物事を効率よく決断していきます。」とPriceは話します。
しかし、この仕事の進め方も、会社が大きくなり、商品開発とマーケティングの責任者の人数が増えるとうまくいかなくなります。「私たちの焦点はぽやけ、方向性にも相違が生じました。」とPriceは振り返ります。Merrill Lynchとの取引により、TomsonとCooperは初めて大金を手にしました。当時の状況を知る人によると、Tomson はクリエイティブな仕事に携わることが少なくなり、担当する業務のいくつかをShaheen Sadeghiと Mark Priceに引継ぎます。当時はGotchaもピークを迎えていた時期で業務の量も増大しており、それでもTomsonの負担が減るということはありませんでした。その頃、Priceが「filters」と名付けたメンバーたちは重要な役割を果たします。成功を収めたことにより、経営陣は原点との密接な関係をおろそかにし、社内にも経営陣の顔色を窺うような雰囲気が出来上がります。「私は当時の状況をエルビス・ファクターと呼んでいました。周りの人間から王様のように崇められると、人は現実を見失ってしまいます。そうなると、すぐに転落していきます。」と当時Gotchaの顧問を務めていたBryan Friedman は語ります。「Gotchaが誤ったのは、あまりにも急激に成長したことにより原点を忘れてしまったことです。」とTomsonは話します。売上げが増え、市場の要求に応えようとするあまり、Tomsonいわく「スピードウォブル」が生じます。予想以上のスピードで成長を遂げた会社は、コントロールを失っていきました。「流通をコントロールすることは、アメリカンドリームと正反対に位置するものでした。」と Tomsonは語ります。革新的な商品開発とマーケティング戦略でGotchaは成長を遂げますが、市場 の需要の高まりにより、本来はブランドの成長をコントロールしなくてはならない経営陣の連携にずれが生じます。「貪欲なセールスマンを数多く抱えていました。Michaelは否定的な見方をしているかもしれませんが、実際にはそれが自然なことで、貪欲なセールスマンは必要不可欠な人材です。貪欲な 姿勢がなければ、良い仕事はできません。彼らはとても有能でした。ただ、今振り返ってみると、限度を設けるべきでしたが、有能な販売担当者を失いたくはなかったので、流通に関しては妥協をせざるをえませんでした。」とCooperは話します。
「会社の規模が大きくなると商品の質が落ちてしまいがちですが、Gotchaもそうでした。」

Michael Tornson




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ハワイ地区の責任者を務めていたJim Blewsterも販売に携わっていましたが、不吉な前兆は察知していました。「3、4シーズンの間、Gotchaの商品は飛ぷように売れていきます。また、高齢者の方々がGotchaのウェアを着ている姿も目撃しました。その時、Michaelがかつて言っていた「会社の規模の拡大は商品の質を落とす。」という言葉を思い出しました。」とBlewsterは語ります。1980年代後半はサーフィンブームの絶頂期で、全盛期を迎えていたGotchaも売上げを伸ばすことだけを考えていました。
「セールスミーティングで、ボードショーツのサンプルが発表されましたが、裏地付きで伸縮性のあるシルエットでないとデパートは買い取ってくれないという理由でこの商品はボツになります。
「Gotchaはボードショーツを取り扱わないサーフブランドなのか!」と怒りを覚えました。私は目の前 で起こっていることが信じられず、セールスミーティングの途中で退席しました。」とTomsonは語ります。当時、南アフリカ地域を担当していたPaul Naudeは、1980年代後半に入社するとサーフウェア市場が供給過剰の状態であることに気付きます。「マスマーケットが本格的にサーフウェアの販売に乗り出しましたが、サーフィン業界が新しい方向に進む前に供給過剰の事態に陥ります。」とNaudeは 語ります。結果、サーフウェアの価値は下落します。また、販路の拡大によりブランドの価値が薄まり、売上げにも影響が出始めましたが、売上げを追求するという販売担当者の姿勢は揺るぎません。「顧 客が純粋なブランド品と模倣品を買うとしたら、模倣品を選んでしまうでしょう。」とNaudeは語ります。 Shaheen Sadeghiによると、売上げの低迷によりデザインやマーケティングの担当者のモチベーション が低下したそうです。生産量も発送量も増え続けた結果、Gotchaの商品は市場に溢れ、飽和状態となります。「ショップには商品を並ぺるスペースがないほどでした。」とSadeghiは話します。取引先に対して強引に売りつける姿勢が裏目となり、ブランドの信頼も失っていきます。「Gotchaは世界最大 のサーフブランドとなり、業界の先を行く存在となりました。当時は、現在のPacSun社のように発達した流通システムはなく、デパートが流通を取り仕切っていました。コアな小売業者は、Gotchaが女性用ウェアやデニム、靴、アクセサリーを積極的に開発する姿勢に反発します。Gotchaは創造性という点においても市場の一歩先を行っていたため、大きな代償を払つていました。私たちは新幹線のように高速で進みますが、線路が不足していたため、最終的に脱線してしまいます。.tSadeghiは語ります。販売サイドの混乱が、ビジネスサイクルの短期的傾向やターゲットとする市場の流行の変化を見落と す原因となります。「Gotchaが年間売上げ1億ドルを達成した時、私は30歳になっていませんでした。その頃は羽振りもよく、この状態が永遠に続くと思っていました。」とJoel Cooperは話します。最終的 にサーフィン業界は落ち目を迎えます。新幹線が脱線しただけでなく、線路の進む方向も変わってしまいました。サーフウェアの需要低下の一因は、部外者の参入であるとNaudeは分析します。「今振り返ってみると、1980年代の主要なサーフウェアブランドが犯した最大の過ちは、低俗なデパートに販売網を広げたことでした。結果的に、業界の再編に支障をきたすことになります。デパートがサーフウェアの取り扱いを中止すると、いくつかの会社は倒産に追い込まれました。」とNaudeは振り返ります。




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業界が小規模であればこのような変化にもすばやく対応できましたが、商品のボリュームが事態を悪化させてしまいます。サーフィンブームが去ると、会社には在庫の山が残りました。「Michaelの反対を無視し、販売担当者は次々と顧客を開拓していきます。そのなかには、ロビンソンやノードストロームも含まれています。当初からMichaelはデパートでの販売に強く反対していました。」とBryan Friedmanは語ります。最後にサーフウェアを導入したデパート業界が最初に販売を打ち切ります。 Tomsonはここから教訓を学びました。「常に原点に立ち、商品開発を怠らず、販売する相手を選ぷことが会社を長く存続させる秘訣である。」と。1980年代に生まれた二つのトレンドに押され、1990年代初めにはサーフィン人気が急落します。一つはシアトル発のグランジ・ロックで、カジュアルな服装に長髪というスタイルが若者文化に衝撃を与えます。もう一つはスラム街発祥のヒップボソプで、「アー バン」や「アスリート」という要素を抽出し、ラップミュージックに続いて全国に広まっていきます。Shawn Stussyはこの流れに乗り、成功を収めましたが、玄Gotchaはサーフィンに固執します。しかし、サーフィンはすでに最先端の若者文化という存在ではありませんでした。Merryll Lynchは、ブームに乗ってサーフィン業界に進出しましたが、業界は急激に落ち込みます。多くの中小企業が倒産し、残った会社も生き残るためには厳しい対策を取らざるを得ませんでした。「辛い状況でした。だだ、疑問だったのは、大規模市場が崩壊した時になぜGotchaは規模を縮小してコアに立ち戻り、再起を図らなかったのか、ということです。コアの精神を失ってしまったのでしょうか?」とPriceは疑問を投げかけます。しかし、「Gotchaの規模はあまりにも巨大化していて、経費もかさみ、大量販売を続けざるを得ない状 況でした。」とTomsonは話します。その頃の販売担当者は経営陣の指示に従わず、独自に仕事を進めていました。売上げの増大がこの傾向にさらに拍車をかけます。熱狂的な需要により、販売に依存する戦略の近視眼性は見落とされていました。従来の販売ルートが停滞すると、Gotchaは新たなル ートを開拓していきますが、徐々に小売業者からは疎外されていきます。流通網も現在ほど発達していませんでした。「今までに起こったことがなく、まったく新しい経験だったので、全員が困惑していました。」とZumiezのCEOを務めるTom Campionは語ります。


「Gotchaは創造性という点においても市場の一歩先を行っていたため、大きな代償を払うことになります。」

Shaheen Sadeghi


「私たちは非常に大きな存在に成長しました。トレンドの波に乗り、新たな分野を次々と開拓していきますが、Michaelはこの状態が長く続くと思っていたかは知りません。」

Lorin Fleming




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コアな市場は、Gotchaの商品が大きな市場へ流出することに拒絶反応を示します。「時期尚早でした。現在ではQuiksilverやMacy's、Zurniezの商品がノードストロームで販売されていますが、1980年代 の終わり頃は、子どもがデパートでサーフウェアを見かけると、「あれ、なぜサーフウェアがデパートで 売っているの?」という感じでした。」とCampionは語ります。Tomsonは不吉なサインをいち早く察知し、商品の流出を阻止しようとしますが、すでに歯止めが利かない状況になっていました。「当時の Gotchaは多くの問題を抱えていて、考え方の違いによる内輪もめが絶えず起こっていました。成功したことによる弊害が出始め、社内は異様な雰囲気に包まれます。」とTomsonは振り返ります。1990 年代のGotchaはもはや成功者という存在ではなく、落ち目に差し掛かっていました。「厳しい決断をしなければなりませんでした。年間の売上げが1億2,000万ドルから9,000万ドルに急落します。当時のGotchaは経営陣の給料と広さが17万平方フィートもある広大なオフィスビルの維持に多大な 費用がかかっていました。突然、現実の世界に引き込まれた感じです。」とJoel Cooperは当時の辛い心境を語ります。Tomsonは数年前からアンダーグラウンドで広まっていた新たな若者文化と Gotchaとの融合を試み、Gotchaのグラフィックにレイヴ/ストリートの要素を取り入れますが、時代の先を行き過ぎていました。その数年後にアーバンスタイルを取り入れたウェアがデパートに登場し、レイヴ/ストリートが流行するという皮肉な結果となります。「Michael Tomsonは常に時代の一歩先を行っていましたが、グランジもレイヴも先を行き過ぎていました。Michael Tomsonは原点に立ち戻ることはせず、その方向性にずれが生じてきます。」と1985年にGotchaに入社し、現在はPerry Ellisの下でGirls Starを運営するBarbara Hainlineは語ります。フィッシュマンのロゴに代わってG-starのロゴが新たに採用されますが、新しいロゴはストリートウェアのテイストを取り入れていたため、コアとはさらにかけ離れていってしまいます。当時の市場はGotchaがイメージチェンジを図ったものととらえ、ブランドが抱える問題はさらに根深いものとなっていきました。「Quiksilverはサーフィンにこだわり続けました。ブランドの知名度はGotchaには及びませんでしたが、ハードコアな市場からの支持を受けます。その一方で、Gotchaは方向転換を進めていきました。」とBryan Friedmanは語ります。サーフィン産業の規模の縮小によって変化した市場の状況に対応するためには、何らかのアクションが必要であるとTomsonは考えます。「何かをしなければならないと思っていました。会社の車輪が外れかけている状態だったので、土台を立て直す方法を見つけなくてはなりませんでした。」とTomsonは語ります。社内の緊張は高まり、1990年代初めには有能な社員の流出が相次ぎます。Sadeghiは販売担当者の無計画な営業方針に嫌気がさして1991年にGotchaを退職し、Quiksilverの代表に就任します。「私がGotchaを去った時、Gotchaはまだ勢いを失っていませんでした。数多くのCDもリリースし、トップテン入りを果たすほどでしたが、徐々にブランドのイメージが変化します。
バンドでもドラムやベースのメンバーが代わるとサウンドが少し変わるように、Gotchaもボーカルは代わりませんでしたがサウンドが変化していきました。」とSadeghiは振り返ります。Gotchaの衰退により、Tomsonと CooperはMCDに望みをかけるようになります。
「1996年にWinklerが業務を取り仕切るようになり、様々なイベントを手がけましたが、どれも大失敗に終わり、その後5年間はこの影響を引きずることになります。」




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MCDは販売網を広げすぎないように注意し、ボードショーツも市場から高い評価を受けます。サーフ ショップでの売行きも好調でしたが、コアな市場の規模は小さく、どうしても成長は限られてしまいます。 Gotchaの創業者二人は、徐々に戦意を失っていきました。Gotchaの社内はデザイン、マーケティング部門とその他の部門とが真っ二つに分かれるという状況に陥ります。また、かつてGotchaが独占 していた市場には新たなブランドが進出してきました。「いろいろなブランドが参入し、競争が活発になります。QuiksilverはGotchaを凌駕する存在にまで成長しました。こうなるとMichaelと私にはなす術がありません。できる限りのことはやりました。サーフショップでの支持を一度失ったGotchaが立ち直ることは不可能でした。」とCooperは話します。会社の規模縮小は避けられない状況となり、同時に社内の士気も低下していきます。人材の流出も相次ぎました。MCDのデザイナーとして活躍し、コア な市場との窓口を担当していたJack Dennyも退社し`自分の会社を立ち上げます。また、Mike FunkとLorin FlemingもGotchaを去ります。Tomsonはベイオブプレンティ一時代からの友人で、南アフリカでのGotchaの販売権を所有していたPaul Naudeに電話をかけます。「Michael Tomsonから電話 があったのは、1991年の9月だったと思います。ShaheenがQuiksilverに移ったことに憤慨していました。そして、「頼みがあるのですが、アメリカに来てもらえませんか。」と依頼を受けます。」とNaude は語ります。Naudeと彼の妻はダーバンの海岸近くに新居を建てたばかりで全Gotchaとラングラージ ーンズの商品の販売で忙しい時間を過ごしていました。Naudeはしばらくの間考え、短期間という条 件付きでアメリカに行くことを決意します。「妻とは、「1995年までには南アフリカに戻ってくる。」と約束をしました。」とNaudeは話します。Gotchaがアメリカで直面している不振の影響はなく、南アフリカでのGotchaの売上げは順調でした。「私は1992年にアメリカに渡りましたが、Gotchaの落ち込み具合はまった<把握していませんでした。販売権を持つ私には良い情報しか入ってきていなかったのです。自分の地域の売上げが好調だったので、ブランド本体の状況はそれほど気にしていませんでした。」
とNaudeは語ります。Naudeが渡米して最初の1年間は、主に損失の後処理を担当しました。
その間、Tomsonは商品開発とマーケティングに専念します。「私たちは原点に立ち戻り、開発する商品の方向性も修正しました。」とNaudeは話します。Gotchaの負った傷は深く、市場で置かれている立場 はそれまでにないほど厳しいものでしたが、前に進むしかありませんでした。歳入はありましたが、利益が出ない状況が続きます。しかし、1994年には再び利益が出るようになり、翌年には経営状況が 上向きになります。「ヒット商品もいくつか生まれました。」とNaudeは振り返ります。また、Gotchaは 子供向けのブランド「Girl Star」を立ち上げ、最初の1年間の売上げは500万ドルを記録します。かつて『Surfing』誌の編集者を務めていたDave GilovichはTomsonの古くからの友人で、Gotchaとも長 い付き合いがありました。Mark Priceの退職後に市場の動向は不安定になり、GotchaはPriceの代わりとして『Surfer』誌の編集者をしていたPaul Holmesを招き入れます。その後、市場が過渡期を迎えていた頃にGilovichがGotchaに入社します。「私の仕事は進行中の広告展開やマーケティングへの指導、助言をする、いわば業務全体を監督する役でした。」とGilovichは語ります。1年と経たぬうちに、Gilovichはマーケティングディレクターに就任しました。「当時のGotchaにはまだ勢いがありましたが、絶頂期には遠い状況でした。しかし、Michael Tomsonの下で働いたことは貴重な経験となります。彼は明確なビジョンを持ち、創造力とカリスマ性を兼ね備えていました。Tomsonは次々と素晴らしいアイデアを提案し、不可能だと思われることも成し遂げていきます。また、Paulも才能豊かな人物で、彼と仕事をしたことも私にとってはプラスとなりました。過去ほどではありませんでしたが、 Gotchaは依然として高いブランドカを誇っていました。」とGilovichは振り返ります。

「もし、GotchaがQuiksilverと同じように株式を公開していたら、こうはならなかったでしょう。私たちは 若くして成功を収めたため、経済が悪化して売上げが落ちた時でも会社の規模は縮小しませんでした。変なプライドが邪魔をしていたのでしょう』

Joel Cooper




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Gotchaが少しずつ立て直しを図っている頃、Merrill Lynchはlnterfunding部門を閉鎖することを決定し、Gotcha International (Gotcha、MCD、Girl Star)の株を売りに出します。投資銀行のButler, Chapman & CompanyがGotcha株の売却先を探し、Jay Schottensteinが名乗り出ます。 Schottensteinは大富豪の出身で、ミッドウェストで格安ストアのチェーンを展開し、また、American Eagleの代表を務めていました。「Schottensteinはサーフィン業界への参入を考えていました。彼は当初、OP株の購入を検討していましたが、ビジネスパートナーのMarvin Winklerが、Gotcha株の購入を勧めたようです。」とCooperは話します。かつてBody Gloveの代表を務めていたWinklerはニュースでのコメントや裁判での証言など、論客として知られていましたが、Michaelたちによると、評判が独り歩きしていたそうです。「Winklerのマーケティング手腕は高い評価を受けていましたが、まった<の間違いでした。」とFriedmanは話します。FriedmanはWinklerが実際の業務に口を挟んでくる人物だという評判を聞き、Winklerとの取引に応じないようCooperに警告しますが、手遅れでした。1996 年に正式に取引が成立します。Winklerの下でGotchaは様々なイベントを開催しますが、大損害を被り、その後5年間はこの影響を引きずることになります。WinklerがGotcha Internationalの株を購入した結果(実際に費用を負担したのはSchottensteinですが)、Gotchaは創業者派とWinkler派の真っ二つに分かれました。「社内の雰囲気は最悪で、統率がまったく取れていませんでした。」とCooperは語ります。Merrill Lynchは悪い時期にGotcha株の売却を決めてしまいました。「Marvinと彼の部 下が業務に関わるようになり、社内はただ混乱するだけでした。」とNaudeは語ります。Winklerは自 分の部下をGotchaに送り込みますが、Naudeは彼らとうまくいかず、すぐにGotchaを去りました。 Winklerは壮大なビジョンを掲げていて、サーフウェアの製造だけではなく、インターネット分野への進出やボードスポーツを題材とした「Gotcha Glacier」という名のテーマパーク建設の構想も持っていましたが、Winklerのアイデアは非現実的なものばかりで、会社のエネルギーと資産を吸い取り続けます。 Joel Cooperは経理担当としてWinklerの構想には無理があると判断し、Winklerと衝突します。「私たちは自分たちの仕事に誇りを持っていました。Gotchaと一緒に仕事をすれば、Gotchaがどれほど良い会社であるか肌で感じることができるでしょう。その点は私たちも自信を持って言えます。しかし、突如として二枚舌の人間がGotchaに入ってきました。」とCooperは話します。その頃のGotchaは` MichaelとCooperが指揮を取っていた時とはまったく別の会社になっていました。令二人が築いてきた健全な経営の姿勢は、新しいパートナーとの力関係など、様々な要因によって崩れています。また、銀行は増資をするように強く迫りますが、TomsonもCooperも拒みました。自分たちの未来をWinklerに託したくはないと思っていました。「会社の立て直しには少なくとも5年が必要でしたが、私たちは身動きを取ることもできず、好転の見込みもなかったので、Gotcha株の売却を決心します。市場の流れからすれば、正しい選択だったでしょう。」とTomsonは語ります。純粋なアクションスポーツとしてサーフィンが再びブームとなる兆しはまだありませんでした。「もし、流通網が現在ほど発達していたら、私たちは株を売却しなかったでしょう。新しく成長してくるブランドもなく、PacSunもまだ存在していませ んでした。振り返ってみると、私たちがすべきだったのは経費を削減し、資産を増やし、力を蓄えることだったのかもしれません。しかし、当時の私たちはサーフィン業界が好転するとは思いもしませんでした。私たちは10年間、カリフォルニア州でサーフィン業界を売込みましたが、流れは変わりませんで した。状況を打破するために私たちは1,000万円の自己資金をつぎ込みますが、効果はありませんでした。」とTomsonは話します。「もし、GotchaがQuiksilverと同じように株式を公開していたらこうはならなかったでしょう。
私たちは若くして成功を収めたため、経済が悪化して売上げが落ちた時でも 会社の規模は縮小しませんでした。変なプライドが邪魔をしていたのでしょう。」とCooperは語ります。 WinklerがGotchaの経営に携わるようになってから1年と経たずに、Joel CooperはGotchaを去り ます。WinklerはTomsonとCooperが所有していた株をすべて買い取り、Cooperは1年間の競争避 止条項にサインをしてGotchaを退職しました。一方、TomsonはCooperのようにすんなりと退職することはできません。「WinklerはTomsonの力を必要としていましたが、私はお払い箱でした。彼は私のポジションが欲しかったのでしょう。」とCooperは語ります。Tomsonは3年間の競争避止条項にサインをし、代表取締役としてGotchaに残ります。「取引をスムーズに進めるためにMarvinは私の存在を必要としていました。私は身動きの取れない状況に追い込まれ、代表者という肩書きだけが残ります。Joelが早い段階でGotchaに見切りをつけて退職したのは正解でした。長い目で見れば、Joelは正しい選択をしたと思います。彼はGotchaを去り、Lost Clothingを立ち上げましたが、私はGotcha に留ることになります。」とTomsonは語ります。Cooperは様々な不安の中で新しい事業を始めましたが、順調なスタートをきりました。




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「Gotchaを去るのは辛い決断でしたが、株を売却していくらかの資金が手元に残ったのは幸運でした。 Gotchaのピーク時に株を売却していればもっと大きな額が入ったと思いますが、新鮮な気持ちで再ス タートをきることができました。その頃の私は心身ともに疲れきっていましたが。」とCooperは話します。TomsonはもはやGotchaの先導役ではありませんでしたが彼は会社に残り、Winklerが指揮を取るGotchaが崩壊していく過程の一部始終を見届けます。「Gotchaが衰退していく様子は、成長を見守るのと同じぐらい見応えがありました。特にMarvin Winklerの人間性と彼が提案する壮大なアイデアは一見の価値があります。Winklerのアイデアが実現することはありませんでしたが、私は彼の 物事の考え方には敬意を表していました。問題なのは、それを実行に移さないということです。アイデアがプレゼン段階からいっこうに前に進みませんでした。」とTomsonは語ります。Tomsonによると Winklerは「超低級アーティスト」で、会社の経営より取引ばかりに気をとられていました。Winklerの下では、長々としたミーティングが繰り返し行われるようになります。「Winklerが連れてきたスタッフの何人かは優秀な人材でしたが、Winklerはアイデアを実行に移しません。彼は自分のアイデアを表現するがためにGotchaを買収し、ブランドの方向性の転換を図りますが、誰も具体的な姿が見えていませんでした。」とTomsonは話します。Winklerはアパレル業界から離れ、ライフスタイル産業にも参入しました。Gotcha.comはBluetorchにその姿を変え、アクションスポーツに関するブロードバンドやテレビ用のコンテンツを製作します。後のFuel TVの道標となりました。Winklerはコンバージェンスやアプリケーションにこだわりますが、ウェアに関してはほとんど無関心でした。「Marvinは常に取引のことを考えていました。一つの取引が終わるとすぐに次の取引に取り掛かり、一時期は販売権、インター ネット、Gotcha Glacierなど、9つの取引を一度に進めることもあったと思います。彼は取引にばかり 注力し、経営には見向きもしませんでした。」とTomsonは話します。Gotcha GlacierはWinklerが手 がけたプロジェクトの中で最も壮大なもので、メディアの注目を集めましたが、実現には至りませんで した。Gotcha Glacierはアクションスポーツを題材とした屋内型テーマパークで、150フィートの高さがある氷河に3.5エーカーの範囲にわたって人工雪を降らせ、屋内の環境をコントロールする設備も備えています。2001年のオープンを目標に準備が進められ、建設には1億ドルがつぎ込まれました。総面積は43万5,000平方フィートで、スノーボード場、ハーフパイプ、初心者用コース、波の起きるプール、屋内/屋外スケート場が完備していました。また、アメリカ最大の屋内型ロッククライミングウォ ールの建設も予定されます。「Winklerは、このプロジェクトに一番力を入れていました。問題を抱えているアパレル会社のCEOがこのようなプロジェクトを計画すること自体が異常です。しかも、彼はこの計画を実行に移そうとしました。」とTomsonは語ります。MCDは、Tomsonがその創造力を発揮する唯一の場所となりました。年間売上げ1,000万ドルの壁は越えられませんでしたが、20年前に Gotchaを立ち上げた時のような新鮮な気持ちで仕事に打ち込みます。Winklerはライフスタイルやアパレルとは無関係のプロジェクトを進めますが、その間に会社の資金は枯渇していきます。MCDのサーファーの中でも抜群のオ能を誇ったAndy Ironsへの給料の支払いも滞りますが、Tomsonにはどうすることもできませんでした。結局、IronsはGotchaを去ることになり、QuiksilverとBillabongの間で Ironsの争奪戦が繰り広げられます。Tomsonは、友人のPaul Naudeが後に代表に就任することとなるBillabongとIronsを引き合わせました。MCDから脱退して数ヵ月後、Ironsは世界タイトル戦で三連勝します。TomsonはIronsを手放すことにより、最後のよりどころを失ってしまいました。Gotchaを一から立ち上げ、その強い意志とカリスマ性、創造力に富んだエネルギーで1980年代のサーフィン革 命の先頭に立って進んだTomsonも会社を去ることになります。「Gotchaなしではサーフィン業界は 成り立たないと私は長い間言ってきました。彼らは常に新商品を開発し、生産ラインを拡大してファッ ション業界にサーフウェアの存在を広めます。また、誰も見たことがないような広告を発表し、世界でも有数のサーフチームを作り上げました。無理と経験のなさがたたってしまったのか、Gotchaが衰退するというのは、まさに悲劇です。」とサーフィン業界で最も名の知られた弁護士のBryan Friedmanは語ります。Paul Naudeは一つの教訓を学びました。「サーフィン業界に携わる人たちは、好きなことをして生計を立てられることに感謝しています。サーフィン業界のあるべき姿を守る帰属意識も生まれました。部外者がサーフィン業界に入ってくることには嫌悪感さえ覚えます。他産業から参入してくる 人たちは、サーファーである私たちよりもうまく物事を進められると勘違いしますが、外部から来て成功した人はほとんどいません。サーフィン業界はサーフィンを心から愛し、夢を追う人たちが築いたものです。」とPaul Naudeは話します。


「サーフィン業界は信頼がものを言います。他の業界もそうですが、会社の規模が大きくなりすぎると信頼も失います。」

Mike Salisbury
Salisbury Communications




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「他産業から参入してくる人たちは、サーファーである私たちよりもうまく物事を進められると勘違いしますが、外部から来て成功した人はほとんどいません。サーフィン業界はサーフィンを心から愛し、夢を追う人たちが築いたものです。」

PaulNaude Billabong USA代表
Gotcha元副社長


エピローグ




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小売業の流通システムの発達により、近年のアクションスポーツ界は急激な成長を遂げます。魅力的な売り場を持つサーフショップが不足していたことが,1990年代前半のサーフィン業界の衰退を招いた一つの原因でした。当時、各ブランドはサーフショップとデパートに商品を卸していましたが、仲介業者は存在していませんでした。また、都市部にはサーフショップがありませんでしたが、PacSunの登場により状況が一変します。カリフォルニア州の商業地域に初めて進出したサーフショップのPacSunは、1993年に株式を公開した時は60店舗でしたが、現在は859店舗にまで拡大しています。また、パシフィック・ノースウェストを拠点とする小売業者のZumiezは1990年代前半以降、毎年20%の成 長を遂げています。「この成長はアクションスポーツ産業の規模の拡大が要因でしょう。サーフィン、続いてスケートボード、スノーボード、ジュニアと広がっていきました。私たちはカテゴリーを広げ、扱う商品の数も増やしていきます。1990年代はアクションスポーツ業界も成熟し、店舗の数も増加しまし た。」とZumiezの創業者で現在はCEOを務めるTom Campionは語ります。サーフィン、スケート、スノーボードを一つにまとめることにより、ボードスポーツは市場を広げました。これらを一つにまとめていたものはサーフィンを起源とする不敬で皮肉、大胆かつセクシーな精神で、Gotchaの代名詞でしたが、現在の市場にもその精神は脈々と受け継がれています。
「Volcomは、まさにかつてのGotchaのようです。」とThe LAB and The CAMPの創設者であるShaheen Sadeghiは語ります。Gotchaが提唱した精神は、依然としてサーフィン業界に生きています。現在のサーフィン業界のリーダーを担う人たちや最先端を行くブランドもGotchaのビジネス手法を参考にしています。「Gotchaはビジネスの進め方を皆に示してくれました。しかし、それだけではありません。後にアクションスポーツ界で多大な影響力を持つ人々はGotchaから様々な知識を吸収しました。MichaelとJoelは現在のアクションスポーツ界の基礎を築き上げた最大の功労者でしょう。」とTavarua Clothingの創業者で、現在はFire Wire Surfboardsの代表を務めるMark Priceは話します。かつてGotchaに所属したことのある人々は、Billabong USA代表のPaul Naude、Stussy Clothing創設者のShawn Stussy、Lost Clothing CEOのJoel Cooper、Perry Ellis Swim and Action Sports代表のSeth Ellison、The LAB and The CAMP 創業者のShaheen Sadeghi、Firewire Surfboards USA代表のMark Price、Rip Curl USA代表の Kelly Gibson、Billabong Australia商品開発部長のMike Savage、Quiksilverデザイン・販売部副部長のMatt Anderson、StussyシニアデザイナーのNicholas Bower、Lost ClothingデザインディレクターのJim Zapata、Quiksilver EditionデザインディレクターのGuy Stagmaとそうそうたるメンバーがいて、他にも数多くの人がサーフィン業界で活躍しています。Gotchaは優秀な人材を育ててサーフィン業界の土台を作り、現在の業界はその上に成り立っています。「Gotchaの結束は固く、Gotchaを離れても他の人とは何らかのつながりがあります。」とSadeghiは語ります。「自分たちの成し遂げたことを過 小評価しすぎでしょうか?」と長い間Gotchaでデザイナーを務めたLorin Flemingは尋ねます。「時々そう思うこともありますが、その必要はないでしょう。私たちは大きな成長を遂げ、それがすべてを物 語っています。Michaelは反対するかもしれませんが、彼はこの状況が永遠に続くとは思っていなかったでしょう。私たちはトレンドの波に乗り、市場を次々と開拓していきました。」とFlemingは話します。 Gotchaは1970年代に設立され、その後20年間で急激な成長と衰退を経験します。1980年代の Gotchaは市場を席巻していました。しかし、次第に時代の流れに取り残され、1990年代には徐々に その輝きを失っていきますが、輝きを完全に失うことはありませんでした。「Gotchaはまだ終わっていません。ブランドには経営者の意志が反映されます。有能な人材が根気よく良い仕事をすれば、必ず復活することができます。」と創業者のMichael Tomsonは語ります。多くのブランドが新商品のヒットによって、復活を遂げてきました。例えば、ゼネラルモーターズはキャデラック・エスカレードでブランドのイメージを転換しました。また、ランドローバーもレンジローバーのヒットによってブランドのイメージが変わりました。「アメリカではMaui and Sonsは無名のブランドですが、イタリアに行くとDieselと肩 を並べる存在です。まさに、ブランドを支えているのは消費者なのです。」とJoel Cooperは語ります。 同様に、Gotchaはアメリカ市場で苦戦していますが、日本では好調な売上げを記録しています。 MDが功を奏し、東京だけで25店舗を展開しています。南アフリカでは、QuiksilverとBillabongの 少し下でしょう。アメリカ国内の市場にも入り込む余地はまだまだ残っています。」とTomsonは話します。2006年にGotcha、MCD、Girl SねrはPerry Ellis Internationalの手に渡ります。Perry Ellis Action Sports/ Active部門の責任者はSeth Ellisonで、1980年代中頃にGotchaに所属し、後にQuiksilver やNikeを渡り歩いてきました。「過去にMichael Tomsonの下で働く機会がありましたが、才能豊かな仲間たちとともに仕事をすることができ非常に有意義な時間でした。Gotchaでキャリアをスタートさせ た私は、サーフィン業界についてーから学びました。Gotchaと再び仕事をすることができ、個人的に も嬉しく思っています。」とEllisonは語ります。Perry Ellisはブランドの価値と将来性を見込んで Gotchaを買収しました。「Gotchaがかつて持っていた精神は、今のティーンエイジャーの心にも響くと思います。私たちはその精神を取り戻そうと試行錯誤を繰り返しています。誰もがGotchaの再興を 待ち望んでいます。Gotchaを再び世界的に有名なブランドにすることがPerry Ellisに課せられた使 命です。」とEllisonは話します。GotchaやMCD、Girl Starが残した財産は前進することによって守られます。「デザイナーたちは過去の作品を見直し、どのように過去を取り入れ、それを未来に活かす かを模索しています。そうすることにより、かつてブランドが表現していたことを理解し、現在の子どもたちに受け入れられる商品の開発にもつながるでしょう。」とEllisonは語ります。コアなブランドとしての地位を再び確立するため、MCDはかつてGotcha/MCDに在籍していたJohnny MonsonとChris Bolandが立ち上げたBlackhart Brotherhoodに協力を依頼します。「Perry Ellisにとって、MCDはまさに「理由あり反抗」という原点回帰の象徴でした。Blackhart Brotherhoodは、快くこの話を受けてくれ ました。彼らはGotchaとの付き合いが長いので、すぐに意図を理解してくれます。当時はどのブランドも同じトレンドを追いかけていたため、サーフィン市場は少々新鮮味が薄れていました。かつての MCDは市場が右に進めば左に行くという姿勢を貫いていましたが、まさに今、その姿勢を示す絶好 の機会となりました。」とEllisonは話します。Gotchaは30年間の歴史の中で、新たな転換期を迎え ています。業界をリードしていた最初の10年間、GotchaはTomsonのモットーである、「未来を予測 する最適の方法は、自分自身の手で未来を創り出すことです。」を忠実に実行していました。その頃 にGotchaが描いていた将来像が、現実のものとなったのです。
「Gotchaはビジネスの進め方を皆に示してくれました。しかし、それだけではありません。後にアクションスポーツ界で多大な影響力を持つ人々はGotchaから様々な知識を吸収しました。MichaelとJoelは現在のアクションスポーツ界の基礎を築き上げた最大の功労者でしょう。」

Mark Price